今、このとき、病院で過ごしている人がいる

2023年を迎えた。新年、どこで誰と過ごしたか。そのひと時は、楽しかったのか、嬉しかったのか、寂しかったのか、悲しかったのか、自分自身で自分の感情に気づいていることは大事である。

私は、看護師として働いていたころ、年末年始、仕事をしていた。病院で年越しをすることもあったし、元旦に日勤をすることも珍しくなかった。

ただ、私は仕事だ。患者さんたちは、どんな思いでお正月を病院で迎えていたのかとあらためて思う。お正月用の食事が出たりするが、配膳したとたん、ため息をつく患者さんもいた。「最期のおせちだ」と言われると黙って見つめ合うしかない。「最期のおせち」と思っているという人をただただ理解することだけだ。しかも、当時はぐらぐらな軸を持つ私のままに、流し込まれる感情を抱えきれない器しか持ち備えていなかった。振り返れば、私は稚拙で、消耗と疲弊と逃避を繰り返していた。ときには、感情を鈍磨にすることで時間を過ごすこともあった。誰のためにもなっていない。全力で謝りたいくらいだ。

いま、この時、病院で過ごしている人たちが、あきらめの境地、思考の停止した状態でないことを願いたい。こんな多様な時代なのだから、超急性期の状態以外に病院が果たす役割は低い。何か違う選択肢があることを模索したい。

私もあと何回、おせちを食べるかわからない。あと30回くらいはあるのだろうか。

1年に1回のイベントはすべて後30回だ。30回繰り返すことなど、日常に何度でもある。少なくとも、この年末年始、看護師国家試験の講座で「潰瘍性大腸炎☛大腸癌」の症例問題は、30回くらいは繰り返した。30回も繰り返すとただただ流暢に説明するだけの人になる。

私は「わからない」ことの方がはるかに多い。「わかっている」ということでさえ「わかっていない」こともある。つまり、ほとんどがわかっていないのだ。知ったかぶりをして生きているメッキ人間である。そして、メッキ人間の自覚をもって、看護と教育に向き合っているという葛藤に押しつぶされながら、恥をさらし、人に迷惑をかけて生きている。

それでも、人生で最期だと思うと、もっと丁寧に謙虚になるのかもしれない。もっと、味わうかもしれない。もっと優しい言葉を選ぶかもしれない。

残りの人生は引き算だ。私の命をすり減らす契約は削除する。スマホのアイコンを最小限にする。通帳や生命保険、カード類をシンプルにする。パスポートは更新する。今日やろうと思ったことは今日やる。明日でもいいと思うことはやらなくてもいい。時間を無駄に使うときは、無駄を楽しめることに使う。それらをコツコツとやった3日間だった。