「希望」と「絶望」の両方を自分の器の中に入れて生きていく。
「セカンドチャンス」という言葉には、希望がある?
一度失敗したとしても、またやり直せる。過ちを犯したとしても、やり直す機会がある。しかし、この言葉を使うとき、私たちは「チャンスを手に入れるとはどういうことか?」を本当に考え、行動に移すことができているのか。
「セカンドチャンス」という言葉の背景には、自己肯定感や有意味感が深く関わっている。チャンスが与えられたとしても、「自分にはそれを掴む価値がある」と思えなければ、それはただの幻影に過ぎない。逆に、どんなに困難な状況にあっても、「この経験に意味がある」と感じられれば、人は前を向くことができる。
たとえば、昨日の山口達也さんの講演会に取り上げられた「アルコール依存症」からの回復過程では、「失敗を生かしていくこと」が不可欠だ。依存症は、単なる意志の弱さではなく、深い孤独や痛みを抱えた人が選んでしまう生存戦略、つまり社会的要因もあるということだ。だからこそ、回復の道のりには、自分自身を責めるのではなく、過去の自分を受け入れ、未来へとつなげる視座が求められる。
「セカンドチャンス」を本当に意味のあるものにするためには、自己否定からの脱却が不可欠だ。
また、障害や疾病の有無に関する認識も、「セカンドチャンス」という視点で考えられるかもしれない。障害のある子どもが「健常者と同じようにできるかどうか」ではなく、「その子自身の可能性をどう広げていけるか」という視座に変わったとき、子どもたちにとっての新しいチャンスが生まれる。
私たちの社会は、誰もがチャンスを得られる仕組みになっているだろうか?それとも、「一度の失敗」や「生まれながらの違い」で機会を奪われてはいないだろうか。
私は、チャンスを手に入れる行動をしているのか。私は、チャンスを手に入れようとしている人を支援しているのか。ともに喜べるのか。また、ともに改善策を練り合えるのか。
さらに、臓器移植という究極の「セカンドチャンス」もある。ある人の命が救われる一方で、その命を支えるのは別の誰かの「終わり」でもある。この事実は、他人事のように無防備な私たちに「生きるとは何か?」という問いを突きつけてくる。命が与えられることに感謝しながら、その命をどう生きるのか。「問いに向き合うこと」こそが、真の意味での「セカンドチャンス」に気づき、取り扱いができる自分になるということではないか。取り扱えるとは、希望も絶望も、どちらでも自分のこととして向き合えることである。
私たちは、「セカンドチャンス」を単なるやり直しの機会として捉えるのではなく、「生きることの葛藤の中で、それでも藻掻くこと」として考える必要がある。
失敗しても、立ち止まっても、そこに意味を見出せるかどうか。社会が「セカンドチャンス」を支えられるかどうか。そして、私たち自身が、自分や他者に「セカンドチャンスを与えられる存在」であるかどうか。
「セカンドチャンス」とは、単なる再スタートではなく、「生きることそのもの」なのだ。
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