時代がアドラーに追い付いた気がした!
アドラー心理学の本『嫌われる勇気』が大流行したのは、今から10年以上前のことだったと思います。SNSでも話題になり、「人生が変わる本」として一気に広がりました。
私の場合、「今、読んだ方がしっくりくるな・・・」というのが結論です。
『嫌われる勇気』の中には、耳が痛い言葉がたくさん出てきます。
- 人は変わることができる
- 過去ではなく目的が人を動かす
- 他者の課題に踏み込まない
- 承認欲求を捨てる
- 自分の人生を生きる
10年以上前の日本社会は、今よりもずっと、みんなと同じでいることや空気を読むこと、周囲の期待に応えること、我慢することが強く求められていたように思います。でも今は普通に必要な考え方になっています。
働き方、生き方、家族の形、人間関係、価値観・・・「こうあるべき」がどんどん崩れています。その中で私たちは問われます。
「あなたは、どう生きたいの?」
「誰の人生を生きているの?」
これはまさにアドラーが言い続けてきた問いと同じです。今の時代を生きるための実用的な考え方として、すっと入ってきます。
「嫌われる勇気」は、自由になる本
タイトルだけを見ると、この本は「嫌われてもいいから好き勝手に生きろ」という本に見えるかもしれません。でも実際は違います。
アドラーが言う「嫌われる勇気」とは、他者の評価を軸に生きる人生を手放す勇気であり、
自分の人生に責任を持つ勇気でした。
嫌われることを目指すのではなく、「嫌われないために生きる」ことをやめるのです。
看護の現場にも通じる「課題の分離」
特に印象に残ったのは「課題の分離」という考え方です。私たちはつい、相手の問題を自分の責任のように抱えてしまいます。
- 子どもが思い通りに育たない
- 部下が動かない
- 学生が学んでくれない
- 家族が理解してくれない
- 患者さんが治療に前向きにならない
そのたびに、私たちは疲れ果ててしまいます。でもアドラーは、「それは誰の課題か?」「その結果を引き受けるのは誰か?」と。
「支える」ことと「背負う」ことは違います。
共同体感覚があるのか?
他者と競争するのではなく、優劣で測るのではなく、「つながり」の中で生きているだろうか。
私が共同体の一人として、誰かの役に立てる感覚を持っているか、今の時代に必要な感覚だと思いました。孤独、自己否定、不安、分断など、意識せざるを得ない状況です。しかし、アドラーは、人は人とつながり直せると言い、と共感できると思いました。
ハラスメントの「怒り」について
怒りが出るのは、
- 尊厳を傷つけられた
- 安全が脅かされた
- 自分の価値を踏みにじられた
- 不公平が起きた
という、重大な侵害です。
アドラーで分析する=「怒りを否定する」ではありません。むしろ「怒りの意味を読み解く」ことです。
感情は“原因”ではなく“目的”で使われる
アドラー心理学は「原因論」ではなく「目的論」です。
つまり、「嫌なことをされたから怒った」だけで終わらせず、「怒りを使うことで、何を達成しようとしているのか?」を見ます。ここがアドラーのポイントです。
ハラスメントに関わる怒りは、主に3つの目的で出る
① 自分を守る(境界線を引く)
怒りは、いちばん原始的な防衛反応です。
- これ以上踏み込むな
- それは許されない
- 私は傷ついている
- ここで止めろ
という、心の「警報」。ハラスメントにおいて怒りは、自己防衛としての目的を果たしているといえます。
相手をコントロールしたい(正義の制裁)
ここが難しいところで、怒りは「正義」を振りかざしているように見えます。
- あの人に謝らせたい
- 反省させたい
- 二度とできないようにしたい
- 周囲に分からせたい
ただ、アドラー的に見ると「相手を変えたい」「相手を支配したい」という目的が混ざってきます。
自分の価値を取り戻したいという目的
怒りの奥には、
- 私はそんな扱いを受ける人間じゃない
- 私は大切にされるべき
- 私の尊厳を返して
という、価値の回復欲求があります。アドラー的に見ると「怒りは二次感情」です。アドラーは「怒り」を、本当の感情を隠すために出る感情として見ることがあります。
つまり怒りの奥には、
- 恐怖
- 悲しみ
- 無力感
- 屈辱
- 恥
- 絶望
が隠れています。
「課題の分離」で見ると、怒りの整理が一気に進む
アドラー心理学の超重要概念がこれです。
相手の課題はなにか。相手は、怒りによって何を達成しようとしているのか。
ここに自分が踏み込むほど、怒りは燃え続けます。
そこで、自分の課題とは何かを考える習慣が必要です。怒りを表現する相手を目の前にして、私は何を目的としているのかと考えるようにします。
怒りが苦しい理由(アドラー的説明)
怒りが苦しいのは、怒りそのものが悪いからではなく、怒りが“出口を失う”からです。
ハラスメントは多くの場合、
- 相手が謝らない
- 周囲が見て見ぬふり
- 組織が守ってくれない
- 被害者が悪いように扱われる
という構造が起きます。
すると怒りは、「正当なのに、届かない」という形になります。
アドラー的に「怒りを手放す」とは何か
ここ、誤解されがちなんですが、怒りを「手放す=許す」ではありません。
アドラー的に言うなら、怒りを手放すとは相手を変えることを諦めて、自分の人生を取り戻すことです。
以上のことから、10年以上たって、今、読むのはとても意味深いものでした。
私は、病気をして何の目的を果たそうとしたのか、と思いました。なるほどね、

