患者さんという役割
60歳の女性Aさん。慢性関節リウマチで左人工肘関節置換術(TEA Total Elbow Arthroplasty)を受けるために入院してきた。入院直前に、手術の場所を蜂に刺されたそうだ。入院してきたときに左肘付近がパンパンに張れていた。かなり、痛みもあるようだ。「これでも手術できますか?」と不安げだった。結局、手術は2週間ほど延期することになった。
何かよくわからないが、そんな間の悪いことがあるだろうかと思った。
そんな時、2通りの人がいる。「あの時、手術が延期になってよかった」と言う人と「なぜ、あの時、手術できなかったんだろう」と嘆く人だ。
Aさんは、後者の方だった。「なぜ、あの時、手術できなかったのだろう」と嘆いていた。とはいえ、無事、手術が終わってよかったじゃないですか、と私は思うが、こんな場合、この患者さんの主観的な感想を否定するところではない。その人の「嘆き」を理解するほかない。
なぜ、その人がそう言うのかは、本当に聴いてみないとわからない。
Aさんは面白い表現をした。「最初の入院するまで、もう嫌で嫌で、でも痛みがマシになるのならと思って手術を受ける覚悟ができたのに、蜂に刺されて、また2週間、嫌で嫌で。もうこれは神様が手術を受けるなと言うことかしらと考えたりした。」そして、ふっと思い出したような顔をして、「昔、細木何とかっていう人の占いが流行ったでしょ。私、娘から『お母さんは木星人で今大殺界だから、もう少ししたら大殺界が終わるよ。だから今より良くなるって』と言われたの。後から友達に『Aさんは、木星人じゃなくて何とか人だから、来年から大殺界よ、気を付けてね』って言われたことがあるのよ。私の気分は、6年間大殺界よ。その時の気分と一緒だわ。」と言っていた。うまい表現だと思って思わず笑ってしまった。「笑いごっちゃあない」と叱られた。確かに。私は顔を真顔に戻した。「じゃあ、今度こそ、良くなるだけですね!」と言うと、「さあ、分からないわ。一生大殺界かもしれない」と言いながら、手術したほうの左手を広げて、手相を語り始めた。「この線が、アカンらしいのよ」「え、どれですか」「これよ、この細かな線がいっぱいあるでしょ」と言って、変形した右手の人差し指で、左の手のひらを指さした。それにつられて、私も自分の手を広げて見てみると「あ、その線なら私もあります~、これですか、これがあったらアカンのですか」と私も勢いよく左手をAさんに見てもらった。「あら、ほんと。看護師さんもあかんわ。明るそうに見えるけど、ほんとは苦労してるのね。」と憐れまれた。「私、そこそこ幸せに暮らしていると思っていたけど、これからは違うかも・・・ですかね~」「幸せだと思ってるんだったら、占いなんか気にしなくていいんじゃない。」と今度は励まされた。「でも、なんか気になりますよね~これから、アカンかもですね~」と言うと、「気にしなくていいって!気にすると、悪いことが引き寄せられるのよ。」「確かに・・・・・」「くよくよしたら駄目よ、看護師さんなんだから!」「はい、頑張ります~」と予想外の展開となって退室した。
そうか。看護師さんはくよくよしたら駄目なんだ。患者さんはくよくよしてもいいんだ。そういうルールなんだ。占いでも何でもない。社会通念なんだ。慢性的に経過している病気がくよくよ気質をつくっていたのか、病気だから大殺界と手相の悪い線を気にするのか、何かで自分自身を縛っている。
後日、廊下でAさんに呼び止められた。「児玉さん、まだ手相のこと気にしてる?」と言って、私の肩ほどの背丈のAさんが私を見上げながら言った。私はさほど気にしていなかったが「気にしてますよ~」となぜか口をついて言ってしまった。すると、「占いはね、いいことだけを信じなさいね。」と励まされた。「そうですね~」「私もね、いいことだけ信じるわ。もう大殺界も終わるからね、これからはいいことがあると思うから」といって、笑顔ですれ違っていった。完全に私を励ましてくれている。でも、自分自身も励ましている。それはそれで良かったかなと思った。
漱石の『門』の最後の一文、宗助が
「でもまたすぐ冬になるよ」と言った言葉を思い出した。大殺界もまたくるけどね、だ。
Aさんには、いろいろ乗り越えてきたんだから、これからもいろいろ乗り越えていけるよ、と言いたかった。でも、それは分かっているような気もした。
「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。