ラオスにおける見取り

今回、プレゼンテーターの赤尾先生は、フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN代表をし、ラオスで看護師として働いています。

ご自身では、自己紹介をされずに通り過ぎてしまったのですが、2017年、山間部や離島、発展途上国など、厳しい環境のもとで長年、地域に密着した活動を続けてきた医療従事者に与えられる「医療功労賞」を受賞し、厚生労働大臣から表彰される。 2018年、発展途上国にて医療協力に従事し、今後の活躍が期待される医療関係者に贈られる「大山激励賞」を受賞したスーパーナースなんです。

「異文化の死生観」と言うテーマで、諸外国での経験をもとに、「生」や「死」に関するお話をしてくれました。

ラオスでは、40以上の少数民族があります。なかなか、医療を受ける環境が整っていない地域もたくさんあるそうです。周囲は異国に囲まれている海のない国です。多様な民族と多様な言語が、一定の水準の医療を受けることができない現状を生んでいるとのことでした。

死には「普通の死」とそうではない死があり、普通の死と言うのは、いわゆる老衰死と言うこと。子どもが病院で死ぬということが「普通の死ではなく、おうちにも連れて帰らない」と言うお話がありました。スピリチュアルな部分なのです。どこの家にもある守り神に対する決まり事と言ったところでしょうか。

出産はおうちで、おばあちゃん(産婆さんではない)がその介助をする。ちなみにラオスの5歳未満児の死亡率(1,000出生あたり)は、年々減ってきているものの依然として高く47.3です。一方日本は、2.4です。

初めて、妊婦健診に腹部エコーを用いられたこと(お母さんは、男の子か女の子か知りたかった)、また、偶然にもその時の胎児に奇形があったこと、エコーと奇形が結びついてしまったこと、そんな偶然が、医療の壁となることもあるというエピソードは身に沁みました。

小児がんの子どもに告知をするのは、お母さん。「Aちゃんの病気は、治らないから死んじゃうのよ。でもね、もう一度、お母さんのところに生まれ変わってきてね」と母親としての覚悟を伝えています。子どもの死んだ後に子どもの名前を言わないのも、死んだ後、早く生まれ変わってほしいと願っているからなのでしょうか。

老人の死をおうちで看取ります。死亡診断も家族で行います。医者は死亡診断をしません。「私たちの父の死を判断できるのは家族であり、医師にできることではない」と。「そこに愛はない」と言ったご家族のエピソード。裏を返せば、「家族のように愛のある関係であるなら、あなたの医療を受け入れます」とも言えます。

まだまだ、女性にとって不利な環境も多く残されているようでした。アジアの歴史の共通項目と言う感じでしょうか・・・・

参加者から様々な意見や感想がありました。

  • 「私たちの普通」と違うことは、決してよくないことではなく、理解していくことが大事だと思った。
  • 言葉も習慣も異なる40を超える少数民族が生活している。その中で、多様な価値観や慣習が残されている。「これはおかしいことなのかもしれないな?」と思うことも、長老者が言うのだからそうなのかな、と言うふうに残されてきたものがある。それは、日本にもあるのではないか。
  • なぜ、そうなるのか?原因がわからないこともある。それは、日本とラオスとが、同じ尺度で測定されていない。または、背景が違い過ぎる。例えば、教育、識字率、多様な言語、貧困、宗教的な言い伝えなど。
  • とはいえ、似ているところもある。昔の日本は、そうだったのかなと思うこともある(お彼岸の墓参り、神棚、ご先祖さま、氏神さまなど)。
  • 医療の受け手となる子どもやその家族の保健医療に対する考えの違い。副作用などの悪いうわさが広がれば、救えないこともある。しかし、それが、本当にその人たちの幸せなのだろうか。言い伝えや慣習、文化の一面をとらえるのではなく、そういう文化が根付いた過程に着目してはどうか。
  • 違いを知ることによって、自分の置かれている場を達観する機会が得られた。

あっという間の90分、また今日から、日常に戻るのかもしれません。しかし、地球上のあちこちに、自分の設定した枠外のことがたくさんあるのですね。

赤尾先生!ありがとうございました!