トラウマ

トラウマとは心的外傷のこと。その人の生命や存在に強い衝撃をもたらす事象は、外傷性ストレッサーといわれ、その体験をトラウマ体験といわれる。トラウマは単なるストレスとは異なり、過去に起こったストレスフルな事象が後の人生に様々な影響を及ぼす。

Aさんは、20代の女性だった。ある日、一人暮らしをしていたマンションの2階のベランダから飛び降りて、腰椎の圧迫骨折をした。そのため、脊髄損傷となった。2階のベランダから飛び降りた理由は、元カレが、突然侵入してきたからだ。飛び降りるという選択に迫られた恐怖とはどんなものなのかと考え、激しく揺さぶられるものを感じた。

私が、Aさんと出会ったのは、事故の直後ではなく、退院後自宅で生活していたが、Aさんは腰部以下の麻痺があるため仙骨部に褥瘡ができた。褥瘡は、深く、改善の兆しがないため、ポケット切開し、創内の感染した組織を除去し、縫合するという手術をするために入院してきた。

きれいな顔立ちと真っ黒セミロングの髪の毛、ノーメイクで日焼けしたような肌が印象的だった。なんでもはきはきと答えてくれた。対照的に付き添っていたお母さんは、終始不安げな表情をしていた。

術後は、便失禁や尿失禁で傷口が汚染されないように創部は保護されるが、しばらくは紙おむつを着用してもらうように説明した。お母さんは「売店で買ってくるわね」と言って立ち上がった。お母さんの早い反応に違和感があった。残された私とAさんは、たわいもない話をして、Aさんを病室に案内した。褥瘡予防用のマットがふかふかしていて、車椅子からベッドに移動してもなかなか慣れない様子だったので、おもわず笑顔になった。笑うともっと美人だと思った。

ちょうど、お母さんが売店で紙おむつを買って戻ってきたところだった。憔悴している表情だった。「ん?」と私がお母さんの方に目配せをすると、お母さんが紙おむつを持ったまま下を向いてしまった。お母さんの背中を支えながら、さっきまで使っていた面談室に誘導した。私がドアを閉めるや否や、本当に泣き始めた。50歳後半、Aさんを少しぽっちゃりとさせたようなお母さんだった。「私はずっと保母をやっていて、あの子のトイレトレーニングは上手にできました。この歳になって、娘の紙おむつを買いに行くことになるとは思わなかった。事故の時は、生きてさえいればよかったと言い聞かせていて・・・・・。ずっとずっと、こんなことが起こるんですか。娘は、ずっとずっとオムツをつけたり、外した・・・り、」と言って、黙ってしまった。私は、お母さんの手から紙おむつを受け取った。ずっしりと重く、お母さんが握っていた部分が温かく湿り気を感じた。

事故については裁判中であること、新しい彼氏とは事故の後もお付き合いしていること、お母さんは心療内科に通院していることなどを話してくれた。

Aさんの手術は無事終わった。ストレッチャーで手術室まで迎えに行って、手術室から病室に帰るまでの道のり、エレベーターの中、うつぶせになっているAさんは、ストレッチャーを押す私の腕を握りしめていた。何も言わなかった。

病室に戻ると彼氏とお母さんが待っていてくれた。Aさんは、二人に「大丈夫よ」と言っていた。二人の笑顔は硬かった。

Aさんと二人になったとき、「手術室は、怖かったですか?」と聞いてみた。「怖かった」と小声で言った。「事故のことも思い出したし、全身麻酔じゃないから、男性の先生たちの声がずっと聞こえていたのが怖かった」と話してくれた。私たちは十分な配慮がなかったと反省した。このことは主治医やほかのスタッフにも伝えた。主治医はAさんに謝ったらしい。Aさんは「乗り越えていかなければならないことだから、いいですよ。まだ、乗り越え切れていないのか、と思い知らされました」と言ったらしい。

傷はある。傷は残っている。傷は残り続けるかもしれない。でも、その傷を見ても「傷がある」と言う事実として、ただ今の生活に影響を及ぼさない日が来るかもしれない。

Aさんは、生きるための選択をした。そしてその選択に間違いはなかったと思える日を自分の力で手に入れようとしている。応援したい、ただ、それだけだった。

「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。