みんな封印していたのかもしれない。

「看取りのカンファレンスの進め方」のオンラインセミナーを行った。コロナ禍、ドタキャンが相次ぎ、15人未満の参加者となった。

病院や施設からの参加者が多く、カンファレンスの進め方に興味があると思った。しかし、ふたを開けてみると、参加者の皆さんが出合ってきた「看取り」は、あれでよかったのだろうか、ご家族の方にお礼を言ってもらえたけど本当にそれでよかったのだろうか、なんか見落としていたサインがあったのではないだろうか、いろいろな意見交換をすることができた。

何名かにエピソードをお話ししていただいたが、20年前の話を昨日のことのようにお話しできる。さすがである。

昭和の看護教育、平成前半の看護教育の中で、看護師は感情を表出しないように伝えられていたような気がする。例えば、「患者さんや家族の前で泣いてはいけない」と言うような。

私が教員をしていたころには、もうそういうことはなく、共に泣いてしまうこともある、それがいいとも悪いともなく、そんなこともあるよね、人間だもの・・・(by みつを)みたいな感じだった。

看護師の悲しみや無念、怒りをどのように消化していけばいいのかについて、カンファレンスは有効だ。

  • 事実の情報を整理する。
  • 視座を変える。(身体的側面 精神的側面 社会的側面 信念や価値観の側面など)
  • 多職種、多様な世代、異文化、立場の違いの意見を聴く。
  • 情報の解釈の多様性を理解する。

そのカンファレンスの前に、自分に沸き起こってきた感情を支離滅裂に吐露するのもよいと思う。誰かに言わなくても書くだけでもよい。

一人の人生の終焉に立ち会ったにもかかわらず、死後のケアをしてベッドメイキングが終わったら、すぐに入院患者さんが入ってくる。そのたびに感情をいったん押し殺して、あるいは、なかったものにして次々と業務をしていた。その結果、「慣れた」ような感覚になっていたけれど、慣れているんじゃない。自分を深く傷つけないようにしていた。看護師を続けていくために、看護師として生き残っていくための自己防衛にすぎないのだ。「ちゃんと整理できていないということが分かった」ということが私の学びだった。

うまいたとえが思いつかないが、もう終わった恋愛なのにいつまでも引きずる、みたいな感じ。だから、何年もずっと心の中に存在する。うまく消化できない感情は、「もう恋なんてしない」というような極端な烙印につながる。

何十年前の話でもいい。その話をしながら、わんわん泣いてもいいし、怒りがわいてきてもいいので、語りきってみると終止符を打つことができると思った。

忙しさの中で流れていってしまった感情も、自分の感情として大切にしていいのだ。看取りの看護をやりがいのあるものにしていくために「死ぬこと」を話し合える職場を作っていくことが大事だと思った。「死の教育」があってもいいと思った。