「楽しい」をやり続ける
性懲りも無く、私の父がなぜあんな人間に育ったのか書いてみようと思う。(私の父に関する過去の日記をお読みください。)
看護師は患者さんの「親子関係」などに深く足を突っ込んでしまうことがある。特に深く踏み込むつもりはなくても、同じ病気だったり、どちらかが介護者だったり、意思決定を委ねられたりすると何度もご家族と話し合いをする機会があるからだ。「なるほど、そんな歴史があったのか」と理解が深まることもあった。つまり、人格と言うのは、環境によってつくられている部分が多い。資質やタイプもあるだろうけど、うまくいかせているケースもあれば、うまくいかせていないケースもある。
父の場合は、どうだろうか。
父が育った実家の近くには、日本最古の稲荷社(652年創設)がある。太平記には白河院参拝の話があったり、熊野への道中、旅の安全を祈願して奉幣された「みぬさの岡」の旧跡があったりする。その空間は空気が違っていて、子どものころは一人で入って行くことができなかった。真っ赤な鳥居が怖かった。父の父(祖父)は、その村の大地主だったらしい。しかし、自作農創設特別措置法(1946年)で、地主が所有していた土地を手放すことになった。父方のおじいさんは、何をして生計を立てていたかよくわからない。郷土歴史の研究をしていたと聞いたことがあるが、豊かな暮らしの名残を漂わせている人だった。いつも着物を着てカブに乗っていた。会話をした記憶はない。お年玉をもらった記憶はある。100歳まで生きたが、20年ほどは認知症で自宅で介護をされていた。清々しささえ感じるみんなが笑顔の葬儀に参列した。
父の母親は、父が中学生のころ亡くなった。病弱だった。父は、5人兄弟の次男だ。長男も長女もお元気だ。しかし、父は74歳で亡くなる前に、すでに父の弟二人は、いずれも40歳代で病死している。ミステリー小説にでも出てきそうな一族なのだ。
父は思春期の頃、母を亡くしたので、あんなろくでもない人間になってしまったのか、と私は子どものころは思っていた。しかし、それは若くして親を亡くした全人類に失礼な思考だった。寂しい思いをしたのかもしれないが、それだけが人格に影響するとは限らない。
父の葬儀の時、父が大好きだった白黒写真を飾った。父の5,6歳くらいの写真だった。田植え前の泥の畑にしゃがんで、虫や蛙を採っている。麦わら帽子をかぶって、ランニングシャツの父は、空に向かって大笑いをしている。前歯の乳歯がない。その笑顔は、人間とは思えない。「楽しいー--------------」という快楽に振り切っている生命体にすぎない。母(私にとって祖母)が撮ってくれたと言っていた。母に見守られ、好きなことも目いっぱい楽しむ父の顔だ。田んぼの畦道で日傘をさした母が「じろう」と呼んだので、母を見上げたのだろうか。父にも幸せな暮らしがあったのだと思った。ただの快楽に振り切った生命体ではなく、人間としての安心と喜びと幸福に満たされていたのかもしれない。
父は死ぬまで、虫や魚、鳥や花、野菜や果物が大好きだった。親戚の子どもから「タコおっちゃん」と呼ばれていた。素潜りでタコを捕まえてくるからだ。しかも、迷惑なほど何匹も。また、カブトムシやクワガタも大量に飼育していた。夏休み、ラジオ体操に集まった子どもたちにあげていた。みんな喜んで持って帰っていた。私にしてはツノのはえたゴキブリにしか見えず有難くもなかった。
まだまだエピソードはあるが、書いていられないほどだ。だた、一つ分かったことは、父の「楽しい」を誰も理解してあげなかったことだ。もし、父の「楽しい」を理解できていたら、岡本タロー、所ジョージ、タモリ、さかなクンのように、好きなことをやり続ける人生を全うしていたのかもしれない。父の生きた戦争中と戦後の高度成長期の真っただ中、逆風でしかないみかん農家の後継者として婿に入ったことは、お酒に逃げるほかなかったほど、脳の中はてんてこ舞いだった。「楽しい」はタブーだった。
父の父らしさを生かせなかったのは、時代のせいか。家族のせいなのか。後悔の種を捜さなくてよい。「それでいいのだ」。バカボンのパパの言葉は、父の好きな言葉だった。
今、私の目の前に父のような奇人変人が現れたら、「楽しい」に振り切るまでやらせてあげたい。朝から晩まで、寝食を忘れるほど夢中にやらせてあげたい。そして、私にもやらせてあげたい。
父は、私にいちばん贅沢な生き方を教えてくれていた気がする。おもいもかけず「ありがとう」と言いたくなった。