思い出の時間

最期に会いたい人に「ペット」をあげる人も少なくない。車いすなどで移動できる人は、駐車場やお散歩スペースを利用してペットとの再会ができるように工夫した経験がある。友人に車でワンちゃん(名前を忘れたがラブラドール)を連れてきてもらって、「最後の別れができた」と患者さんは言っていた。

患者さんは愛犬と二人暮らしだった。入院中は、友人宅でお世話になっていた。患者さんは、友人がちゃんと世話をしてくれているようで安心した、ワンちゃんも悟っていたようだったと言っていた。最初は、ワンちゃんも再会できた喜びで興奮気味に飛びついてきていたが、ご主人の元気のない様子にすぐにおとなしくなった。愛犬を抱きしめて抱きしめて、撫でまわした挙句、互いのぬくもりを感じ、鼓動を感じ、感情を感じ、そして別れの時間を迎えた。車の窓から姿が見えなくなるまで、切ない目でじっと見送ってくれていた。もう思い残すことはないと言って泣いていた。思い残すことだらけでしょ、と思った。「思い残すことだらけだーーーーーーーー」と叫んでしまったら、もう自分でいられなくなるのだろうか。また会いたければ、「また会いたい」と言ったらだめなのか。「また会えるといいですね」というと、「ん、迷惑かけるよね~」「え、だれに?」「・・・・・・・」。100歩譲って、迷惑をかけることがあったとしても、素直に「また会いたい」と言うのはタダではないか?と思ってしまう。「また会いたい」と言えば、どうなるのか。「ワンちゃんは断らないよ、あれだけ喜んでいたのだから。ワンちゃんも会いたいと思っているよ、きっと。」なぜか、私がモヤモヤする。「ほんとのことを言っていいのに、」とモヤモヤする。これは投影だと思う。私もすぐにほんとのことが言えなくなる。そしてすぐに変化球になって人に伝わってしまう。患者さんのモヤモヤと私のモヤモヤの次元は違うが、看護師はいつも患者さんから自分を見せつけられる。その自分の本性を嫌と言うほど直視しなければならない。教育も同じである。

患者さんは、「旅行にでも行ったかのように、消えていくほうがいいような気がする。主人が変わった家で、幸せに過ごしてほしい」「そういう感じなんですかね。」と言って、話は終わった。床頭台に飾られていた愛犬とのツーショット写真も引出しの中に入ってしまった。「棺には、写真を入れたらだめだよ。持っていかれちゃうからね」と言っていた。

心の中で、どんな駆け引きをしながら、別れを決意しているのかよくわからなかった。でも、もうワンちゃんの幸福を祈っていることに変わりはなかった。あとは、患者さんが決意したことを応援する。「やり直したい」と言えば、またそこから考える。その繰り返しだ。

以前から、アニマルセラピーと言う言葉はあり、動物介在療法(AAT:AnimalAssistedTherapy)や、動物介在活動(AAA:AnimalAssistedActivity)、動物介在教育(AAE:AnimalAssistedEducation)がある。

動物を介在させる効果は、いろいろあると思う。私の個人的には、あまり犬は好きではないが、イルカと話をすると涙が出るという特技を持っている。インコの話は英語を聴きとるのと同じくらい曖昧だが、ちょいちょい分かる。きっと、動物には、何かしらの力があるのだろうと思う。

うちの主人は定年後、田舎暮らしをする。そして主人は動物を飼うのを楽しみにしている。名前は「ももえ」にするらしい。昭和のにおいがする。「ももえ」と呼び捨てにするらしい。どっちゃでもええわと思うが、夫婦二人の生活は、こんな話でもしない限りさほど会話もないのである。

コミュニケーションのかみ合わない「人間」対「人間」の看護をするくらいなら、動物の手を借りるのも一つの方法だと思う。「命」対「命」のセラピーになる。ロボットでもいいのかもしれないが、日本人は諸行無常が好きなので、有限感のある命つながりは相性が良いと考える。

病院や施設に動物と一緒に生活している未来も遠くはない気がする。

「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。