育てる側と育つ側の双方が、互いに対応して生じる「感情」をそのままにしたり、そのままをぶつけたりしないで、その感情をきちんと伝え合えるいいですね。感じたことを言えて、またその感情を聴いてもらえたりすると、お互いに「わかってもらえた」という満足感に満たされると思います。

期待や心配、不安や疑念、どれも相手に関心がないと湧き起らない感情だと思います。どんなに醜い感情であっても「あってもいい」自分の大切な感情なのかもしれません。
宗教哲学者のM.ブーバーは、『我と汝』の著書の中で「――あなたは愛が人間間の唯一の関係であるかのように語る。しかし、正確にいうならば、憎しみもまた存在するのであるから、あなたは愛をただ関係の一例として選んだにすぎない」と述べています。さらに、「愛が全体の存在を見ないかぎり、愛はまだ真に関係の語源語のもとにならないことになる」と言っています。育てる人と育つ人が、感情的に「いい人だ」とか「好きだわ」とか思っているうちは、まだ自分の器の中で相手をとどめているだけにすぎないのかも。時間がたてば、「怒り」「憎しみ」のような感情が生まれることもあります。

相手は自分が考えている形に収まるはずがないです。

自分の外に相手の全体性を感じること。「育てる人」は「育つ人」が自分を超えていく・・・それが「育てる」だと思います。育てる側と育つ側の双方の「感情」でごちゃごちゃしているうちは、「育てる」の境地になっていないとM.ブーバーに言われている気がします。