自分に成る

私が看護師をしているとき、リストカットをする患者さんには、精神科ばかりでなく一般科で働いているときもであった。看護師仲間にもいた。患者さんの娘さんがリストカットをするというケースもあった。看護教員になってからも、現在の仕事をしているときもリストカットをしている学生や看護師さんに出会うことがある。10代の10人に一人がリストカットを経験したことがあると言われているので、「特別」と言うわけではない。

私も子どものころから30代前半くらいまで、痂疲(かさぶた)をつくっては、かさぶたを繰り返しはがすということを繰り返していた。今でも、あちこちにその瘢痕を残している。この痂疲を繰り返しはがしたり、自分の皮膚をかきむしったりする症状は、「皮膚むしり症」と言う立派な診断名がある。

私は、高校生の時、自分で「これは病気かもしれない」と感じたことがある。それは、自分の足にできた痂疲を必死にむしりとっているとき、むしりとったという満足感を得ていたからだ。そしてむしりとってはいけない、むしりとってはいけないと思っていても、むしりとらずにはいられないという衝動があった。やめたいと思っていてもやめられず悩んだこともあるほどだった。結婚する前、主人に「きれいな足の方がいいのに」と言われたことがあって、深く傷ついたがやめることができなかった。「どうぜ、私は」と言う劣等感を加えることになった。決して主人のせいにしていない。数ある言葉の中から、わざわざその言葉だけを際立てて大切に持っておくという自己肯定感低い系の人にありがちな行為にすぎない。

自分に対する肯定感が低い地盤の上に、結婚生活、看護師、育児を構築するには、あまりにも脆弱だった。だから、あれも足りない、これも足りないと思って、色々つけ足してみた。私がいろいろ付け足すのは、だいたい何かを勉強し始めることだ。しかし、フラフラの心身に重たい鎧をつけても、本質的には何も変わらない。そのうえに軽やかにも動けない。夜眠れなかったり、仕事のミスが多かったり、家事や育児も空回りした。私の人生の30歳前後は黒歴史である。

リストカットと皮膚むしり症と一緒にするわけではないが、いくつか似ている点がある。不安や苦痛を和らげるための自己対処という点である。リストカットをしても皮膚をむしっても、問題は何も解決していないという点も似ている。

いよいよ、地盤から耕し直さなければならない。いろいろチャレンジしながら生きている。うまくいったと思ってもすぐに崩れる。私の人生は、集中力のない人がドミノ倒しに挑戦しているようなものだ。ただ、私は、集中力のない自分がドミノを並べていることを楽しんでいるつもりでいる。また、総崩れしたら、大笑いして、一から並べ直すことができているつもりでいる。これは、なかなかできることではない。暇人がする優雅な遊びのようである。

しかも、何度か繰り返しながらステップアップしているのかと言えば、ステップアップすらしていないこともある。ひたすら無駄な時間だったということもある。ひたすら無駄な時間を使うという贅沢さという見方も受容できている。開き直りともいう。ポジティブにあきらめるとか、放置しておくとかというテクニックも身に着けることができた。その一方で執着心に苛まれることもある。が、そっと横に置いておくこともできる。

私は、50歳を過ぎて、私に成ってきたような感じがする。自己肯定感は低空飛行だが、まあ、状況的にちょいちょい上がることもあるので、良しとしよう。明治時代だったら死んでいるところだったが、人生100年時代、人生半ばを過ぎ散らかして、自分に成ることができてよかった。今後、また新たな自分を発見することもあるだろう。その時は、また、自分として迎え入れてあげようと思っている。たとえ、それが受け入れがたい自分であったとしても、喘ぎながらも迎え入れていきたいと思う。できると思う。

いつの間にか、皮膚むしり症は治っていた。