母が望んだ看護師

私の母は、ろくでもない父とずっと暮らしてきたことが差し響き、私に繰り返し言った言葉があった。「手に職をつけなさい」だった。私は美大志望だったので「美大を卒業してから、中学校とか高校の先生になる」と言ったことがあった。母は「先生はアカン!」と反対した。父が、みかん農家に婿入りするまで高校教師だったという理由である。実に論理的でない。母の妄想の押しつけは、当時は知る由もなく、美大に行くのをあきらめた。高校3年生のときだった。実のところ私はデッサンが嫌いだったという理由もあった。私は体裁よく母のせいにしておいた。

母は、兄のことが好きだった。というより期待の星だった。兄は幼いころから、祖父に剣道を教えてもらっていた。庭先でパシンパシンと竹刀のぶつかり合う音が聞こえてきたら、また始まったのかと思った。そして母は、兄に返す返すも「みかん農家を継ぐ」ことを話していた。兄はまじめだった。剣道も勉強もよくできた。そして、静岡でみかん栽培の勉強を2年ほどしてから母の望み通りみかん農家になった。

反面、私はと言えば、美大を潔くあきらめたまではよかったが、進路が決まらなかった。「手に職」と言っても思い出すのは、美容師や看護師などだった。母の言うことを素直に聴くのが癪だった。この点が兄とは違った。結局、高校3年生の冬休み前まで、何もせず過ごしてしまった。ある日、教室でクラスの女子が、2校の願書を取り寄せたが面接日が被るからどちらかにしなければならないという理由で、「こっちの学校は辞めておこう」といって、ポーンと私の目の前の机においた。私は、その願書を手に取ってみると「看護専門学校」と書いてあった。私は、目に飛び込んできた文字を脳を経路せずに、その学校を受けることに決めた。受験日まであと2か月だった。担任の先生への手続きや願書の写真撮影やらその日にすべて終わらせた。

その学校1校だけ受けて1校だけ受かった。母の望み通りになってしまった。一瞬にして刷り込みが開花したのだろうか。謎の1日だった。

母は、私が看護学校に行くことが決まると「これで、ろくでもない人と結婚しても、子どもを養っていけるから安心だ」と大真面目に祝辞を述べた。私と結婚する人はろくでもない人なのか、私は結婚もしていないが離婚することが決まっているのか、看護師さんたちはそんな人の集団なのか。母の偏狭なものの考え方は、知らず知らずに私の頭に蓄積されていった。

子どもたちは、母の繰り返し使う言葉に影響を受ける。私は、30歳頃から40歳頃にかけて、母の洗脳からようやく解放することができた。とはいっても、思いもよらないところで、あたかも母がしゃべっているように息子に話しかけている自分に気づき、度肝を抜くことがある。今は、それも「いとおかし」と思う。

母の名誉のために、少し母をほめておきたい。現在80歳の母は、163㎝と背が高く、手足の長い女性だ。祖父や祖母の「平たい顔族」とは違い彫りの深い顔をしていた。髪も長く、きれいな人だった。存命しているので過去形はおかしいが、子どものころ、参観日などでお母さんが後ろに並ぶと、やっぱりうちの母だけは浮いていると思った。だから、母の言うことは「やっぱり正しい」と思っていた。このことも我が家だけではない。自分の母は単純に特別に思うのが普通なのだ。結局、あまり褒めていない。

「母は、正しくないことを言うこともある」と思えるようになったのは、私が看護を学び、看護に必要な社会学や心理学、哲学や母子関係に至る様々な知識を得たことが功を奏した。当事者研究をするかのように学べたことが良かった。この当事者研究は、現在も進行中である。

今になって気づいたが、母との思い出は1回のブログで書ききれないことがわかった。したがって、次回につづく。