人工関節と人工肛門

私の実家の祖母と母は本当の親子である。つまり、私の父は婿養子だった。祖母も母も20歳で結婚しているので、祖母が「おばあちゃん」になったのは、42歳ほどの時だった。私の記憶する祖母は、いつも涼しい顔をしながら、耐え忍んでいる女性であった。

祖母は、病気のデパートだった。医大の研修医や看護学生にずいぶん貢献したと思う。私も学ばせてもらった一人である。

もっとも最初の病気は、慢性関節リウマチだった。そのため40歳代で人工関節置換術を受けている。和歌山県の民間病院で初のTHA(Total Hip Arthroplasty)だったらしい。74歳で亡くなるまでのほぼ30年間、人工股関節の不具合はなかったので、50年前の医療技術も素晴らしいと思う。

しかし、慢性的に経過したリウマチは、たまに痛そうな顔をしていた。私が、高校の時に描いた祖母の油絵は、手関節と手指の変形があり痛々しい祖母のありのままだった。

祖母は、婦人科系の癌や腸捻転やヘルニアなど、手術を10回行っている。祖母は自分のおこなった手術一覧を年表にして、入院する際には看護師さんに提出していた。「毎回同じことを聞かれるから」と話していた。

私が看護学生の頃、祖母は閉塞性のイレウスのため、一時的に人工肛門を造設した。祖母は、どんなに手術をすることになっても飄々(ひょうひょう)としていた。人工関節のときも人工肛門のときも「ふーん」といった顔をしていた。

そんな祖母に私は1度、叱られた経験がある。祖母が大腸の手術をした後、しばらく絶食しなければならなかった。私は、看護学生だったし、夏休みだったこともあり祖母の付き添いをしていた。私は、絶食の祖母の横で、昼ご飯の菓子パンをむしゃむしゃと食べていた。祖母は「絶食中の患者の横で、おいしそうにパンを食べるなんて、正気の沙汰ではない!」と言って叱った、というのは嘘である。祖母は、「おいしそうなパンのにおい。早く食べたいな~」と言ったのだ。私は、パンを丸呑みして、廊下にすっ飛んでいった。「ごめん、おばあちゃん。」泣きそうなくらい後悔した。実際は叱られていないのだが、叱られた以上に、はっと気づかされた経験だった。

私は看護師になってからも、絶食の患者さんの環境には気を配るようにした。

私が結婚して、祖母はひ孫ができた。「おじいちゃんより長生きできるとは思っていなかった。ひ孫を抱けるなんて嬉しい」と言っていた。確かに、10回の手術しているのだから覚悟を何度もしてきたのだろう。

祖母は、亡くなる3か月前、預金の整理などを母に指示を出してやり始めた。祖母にとっての弟妹たちとその配偶者、娘たちとその配偶者、孫たちとその配偶者、ひ孫たち全員を代わる代わる病室に呼び出して、現金で分配した。

祖母の最後は、祖母の癌が皮膚に転移し、そこからの浸出液が独特の臭いがしたので、1年間、病院の個室で過ごした。そのため貯金も使っていたのだと思う。そして葬式のお金も残していた。お葬式は、雅楽の演奏を希望していた。

分配してくれたお金は、もらいにくい金額ではなかった。大人になってもらうありがたいお年玉のようなお金だった。「ありがとう!」と本気で喜んでお礼を言った。主人も、幼稚園だった息子もたいそう喜んでいた。

そして飄々と死んでいった。お葬式の雅楽は優美な演奏会のようだった。多くの参列者を楽しませた。

祖母の遺言は「じたばたしても仕方がない」。そして、絶食の患者さんに対して周囲の食事のにおいは配慮しなさい!だった。