ルーティンワーク
当時、Aさんは40歳代の男性だった。胃癌だった。
手術室勤務だった私は、Aさんの術前訪問に行った。手術室の中の様子や麻酔導入までの手順などを説明した。しかし、私の言葉はAさんの頭の上を通り過ぎている気がした。
術前訪問は、患者さんの心理的な準備をしてもらう目的もある。しかし、軽減するどころか、余計、不安になっているのではないかと思った。パンフレットもまだ途中だったが、私の話は、これくらいにして「Aさんが、今、一番心配なこととか、聞いておきたいこととかありますか?」「ん~まあ、別に」と言う感じだった。
「ん~聞いておいた方がいいことは、聞きますよ」と言ったうえで、「看護師さんが言わないといけないことを言ってくれたらいいです。」と言った。
「私の言わないといけないことは終わりました。明日、私はAさんの手術につかせてもらいます。私は、お医者さんに手術の器械を渡す看護師ではなくて、Aさんのそばにいる役割です。」
「ふ~ん。ドラマで見るやつやな」「ドラマでみましたか。」Aさんは少し下を向いて片方のほっぺだけで笑った。
働き盛りのAさんの胃癌の手術の前日に、初めて会う看護師に何を言っていいかわからないのはすごく当然のことである。術前訪問が義務化したり形骸化したりする危険性をはらんでいるのは、このような関係構築のプロセスに困難感があるのではないかと思う。
手術当日、手術室の入り口でAさんを迎えた。「こんにちは。昨日訪問した児玉です」「あ、こんにちは。」
手術室の中に入って手術台に仰向けになってもらった。Aさんが天井を見上げた時、無影灯が目に入らないように避けておく。昨日説明した通りの手順で、声を出しておこなっていく。「血圧を測ります。」「胸にシールを貼ります」と無駄なく行う。「看護師さん、昨日の説明通りやな~」「はい、そうですよ。」
手術は無事終わった。
Aさんが麻酔から覚醒するとき、主治医、麻酔科医そして私。目が覚めたとき、「終わりましたよ」と静かな声で言うと、Aさんはうなずいた。
基本的に術前訪問をした看護師が、術後訪問を行う。私が病室を訪問すると、Aさんはベッドサイドに腰を掛けていた。傷口も思ったほど痛くないこと、想像以上に調子がいいことなどの話をしてくれた。手術前の重い空気は払拭されていた。
「手術室看護の向上のために、なにか改善したほうがいいことがあれば教えてください」と言うと「こんな仕事があるんやな~と思った。僕の営業の仕事はお客様の個別に応じて対応しましょうってよく言うんだけど、ルーティンワークをどれだけ確実にできるかで信頼度は上がるよね~」と言って笑った。少しひげが伸びていた。
Aさんのおっしゃるとおりである。手術室で必要なルーティンワークは、スタッフも患者さんも安心して手術ができる環境をつくることだ。誰が何をする、どのようにすると言うことを決めて、時間内に行動する。一切の無駄を削ぎ落すと一人一人の仕事の精度が上がる。一人一人の精度が上がるから、個別的な対応、緊急性のある対応に時間をかけて取り組むことができる。
何度も足並みをそろえることができなかった私だから言えることだ。
「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。