フレディ・マーキュリーの後ろ姿をみて思ったこと。

存在そのものがメッセージだ

『ボヘミアン・ラプソディ』が地上波で初放送された。「Queen」のフレディ・マーキュリーを描いた映画だ。私は、2018年に映画館で観た。その時も随分泣いたけど、今のほうがもっと泣けるのはなぜだろう。しかもYouTubeでライヴエイドのフレディを何度も見て何度も泣いた。電車の中で泣いてしまったときは、隣の高校生が不思議そうに私を見ていた。私が手にしているYouTubeのおっさんの画像と泣いているおばさんの横顔を交互に見ていたが、出てくる涙は止めようがない。

何が私の心に刺さるのか、何が揺さぶられるのか?謎であった(隣の高校生は、もっと謎であったに違いない)。

謎のままでは気持ちが悪いので、フレディ・マーキュリーの生い立ちやいろいろなエピソードを調べてみた。どれも、「へ~」と思うがどうってことはなかった。生まれたところ、宗教、ゲイのこと、人より歯が多いこと、派手なパーティや衣装、闇深い歌詞、はにかんだ笑顔、せっかちで多動な感じ、AIDSなどなど。しかし、そんな情報はあまり必要ではなかった。

私が最も泣けるのは、1985年のライヴエイドのフレディの後ろ姿だ。両足を広げ地についている、こぶしを挙げているが、背中が歪んでいない。スタジアムを埋め尽くした観客と一つになっている。なんだ?この存在感は・・・・。クイーンとして記憶している女装姿や全身タイツのフレディではないのに。

そうだ!わかった気がする。私が泣けるのはこの圧巻の存在感だ。存在そのものからメッセージが伝わる。しかも30年たっても色あせない存在感だ。光も影も時空も含んだ存在感だ。

私はいつもイメージしよう。フレディ・マーキュリーのような「自分は自分である」という存在感で生き抜くことを。

私は自己肯定感がダダ下がりしたとき、フレディ・マーキュリーのように、地に足をつけ、背筋を伸ばして空を見上げて、力いっぱいにこぶしを挙げてみようと思う。「私は私だ。OK!」

2人、室内の画像のようです