手術の前に言いたかったこと
「自分の人生のハンドルは自分で握る」と言う言葉を耳にする。そのたびに、「私、運転しないんだよね~」と言う気持ちになる。もちろん「自分の人生のハンドルは自分で握る」と言う意味は、車の運転をするかどうかの問題ではない。でも、そう思ってしまう。もしかしたら、私は助手席に乗っている人なのではないかとさえ思う。
手術を受ける前の患者さんに、「何か聴いておきたいこととか、不安なこととかありますか?」と訊く。そのときに「俎板の鯉ですから」と言う患者さんがいる。「俎板の上の料理されようとしている鯉(魚)のように、相手のなすがままになるよりほかにどうしようもない状態」をイメージしている。鯉は、川から釣り上げられバタバタしているが、「へいへい、分かりました。ここが俎板ですね」といって、俎板の上に、自ら横になったりしない。屁理屈を言っているかもしれないが、「俎板の鯉」のような気持ちになるというのは、相当な覚悟を乗り越えているのではないかと認識している。しかし、私は、来る日も来る日も手術をする患者さんと出会っていると、時々、ひとりひとりの患者さんの「俎板の鯉」の覚悟を理解せずに通り過ぎてしまうことがあった。
それは、1回や2回ではない。たびたびあった。「看護師さん、忙しそうですね」や「看護師さん、なんも説明聴いてないんだけど」と言う言葉はサインである。このサインを聴くと「はっ」として「ぞっ」とする。
「看護師さん、忙しそうですね」については、「忙しそうだから言いたいことも言いませんけどね」のサインだ。
「看護師さん、なんも説明聴いてないんだけど」に関しては、「昨日、主治医から説明受けていたじゃないですか?」と言い返す場面ではない。「看護師さんは、何も話を聴いてくれないんですね」のサインだ。
最も意外だった手術前の患者さんの「言いたいこと」がある。それは、70歳代の男性だった。手術前日のことだった。廊下を歩いていた私に「看護師さんは、なんも説明してくれないんだけど」と言って呼び止められた。「キターーーー」と言う感じだった。「あ、お部屋に伺って説明します」というと、「あんたも忙しいやろ」と急に恐縮するので、「今、大丈夫です」と言った。個室に入っている患者さんだった。手術のオリエンテーション用紙も何度も読み直した痕跡がある。必要物品もきれいに袋にまとめて入れてくれている。
その患者さんとは、同じ和歌山県生まれだった。なれずし(和歌山の郷土料理で、さばの押しずし)が好き。大企業に勤めていた息子さんが退職をして家業を継いでくれていて、お嫁さんはもとCAさん。それで、お祝いをしてくれる人が大勢すぎて結婚式を2回も挙げた。お孫さんはまだ小さくて、お嫁さんがイライラしていて近寄りがたい。その他省略。実に面白い話だった。自慢話のような武勇伝のような話だった。時々大声で顔を真っ赤にして笑っていた。急に静かになって「ああ、看護師さん、もう戻りや」と言われた。一言も手術の説明はしていないが、「明日の手術のことは分かったわ」と言われた。
この患者さんは、手術の前にどうしても言いたかったこと、俎板の上に横になる前に伝えておきたかったことは、「あの時、非難する人もいたけど今となれば間違えていなかった」「反対されたこともあったけど、まあ、うまくいった」ということを自分で確認しているようだった。
だれにでもあることだ。俎板の上に横になる前にクリアにできたのならよかった。患者さんが退院するとき「体に気を付けや。」といって背中をバーンとたたかれた。私がよろよろとよろめいているうちにエレベータのドアが閉まり帰っていってしまった。あっさりとした別れ際であった。
人生の中で起こるいろいろな偶然も「自分の人生のハンドルは自分で握る」に値するのだろうか。ハンドルや俎板の上は、自分の知っている自分以上に大きな自分に見守られているように感じるのは、私だけだろうか。だから私は、いつも助手席にいる気がするのだろうか。
「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。