私もあの「おばちゃん看護師」と同い年になった・・・・・

私が新人看護師の頃、スタッフの休憩室の掃除をしてくれる先輩看護師がいた。年のころは、今の私と丁度同い年の50歳半ばだ。昼休憩、夜勤のとき、いつも流し台や水切りラックの掃除をしたり、食器棚の掃除をしたり、時にはみんなのカップを漂泊してくれていたりした。冷蔵庫の中にいつまでも飲みかけのジュースが入っていたら「だれのんや?飲むで~」「捨てるで~」と言って大騒ぎしていた。スタッフステーションの整理整頓もこまめにしていた。あるべきところにボールペンがあり、ハサミやノリがある。必要な物品は過不足なくある。

当時の私は「きれい好きなおばちゃん」と認識していた。しかし、いろんな部署で働いてみた結果、一つの結論に至った。公のために働く人の存在は大きい。その理由はいくつかある。きれいな職場は気持ちがいい。あるべきところに過不足なくあるものがあることは、緊急時の対応にも適している。衛生的かつ教育的環境だ。煩雑な職場で仕事をする人はパフォーマンスが下がる。

公のために行動することができる人は、なぜ善いのか

公のために行動する人々は社会全体の利益を優先する。渋沢栄一や松下幸之助みたいな偉人たちと、あの「おばちゃん看護師」は同列である(笑)

公のために行動する人々は、次に使う人や掃除をしてくれるの人たちのことを考えている。やや大げさなことを言えば、将来の世代のことを考えている。また当人は達成感や満足感を得ているかどうか聞いたことはなかったが、他者の役に立っている感覚は幸福感が高まる。私は、あの「おばちゃん看護師」にもっとお礼を言っておけばよかったなと後悔している。フィードバックは、達成感と満足感に火をつける。

きれいな休憩室では盗難や紛失物がない。現時点で2023年8月の張り紙など貼っていないので期限を守る人が育つ。環境が人を育てる。

スタッフステーションの備品もいつでもだれでも取りやすいように置かれている。電池の切れたものや「壊れかけのパルスオキシメーター」などいつまでも使用しない。壊れかけのパルスオキシメーターは壊れている。些細なことだが医療事故の火種である。

 

公の場所を掃除することの価値

公の場所を掃除することにはいくつかのメリットがある。それは本来の仕事ではないのだから強制はしない。お掃除をしてくれる人がいるのだから任せたらいいと思う。しかし私はあの「おばちゃん看護師」の存在価値を述べたい。

コロナ禍になって思ったことだが清潔は効率的だ。衛生と健康という側面でも非常に効率的だ。私は私の狭い事務所内で定期的に一筆箋が紛失する。おかげで大掃除をした際に使いかけの一筆箋を大量に発見することがある。自宅でよくなくなるのが耳かきとピーラーだ。探すのに10分はかかる。つい「ポチッ」と買い足してしまう。非効率、不経済、無駄の極み、環境破壊である。

ゴミ屋敷で子どもたちが豊かに育っていかないのではないかと想像がつくように、整えられた環境では部下が育つのではないかと思う。

私は、あの「おばちゃん看護師」のガシガシと流し台を磨いている後ろ姿とピカピカになった流し台を眺めながら手洗いをした記憶を鮮明に覚えている。にもかかわらず、私は公の場所を整理整頓する看護師ではなかった。しかし34年の時を経て、公の場所を掃除する人になろうと決めた。とりあえず実行可能性と持続可能性を鑑みと2つだけ。

1つ目は、毎朝、最寄駅から事務所までのゴミ拾い。2つ目はホテルに宿泊した際は部屋を掃除してからチェックアウトする。

ゴミ拾いは2か月続いた。もう習慣化すると思う。ホテルの掃除は忘れ物もなくなり、一礼して出ていきたい気分になる。

ゴミ拾いを2か月続けて分かったことは、タバコのポイ捨てが多い。空き缶のなかにゴキブリが入っていることがある。すれ違う人にお礼を言われることがあるなどだ。しかし、これらは息子が少年野球をしていたとき、保護者としてゴミ拾いや草抜きなどを体験して、その時も同じようなことがあったと再確認したに過ぎない。

今回、気づいてことは、私以外にも人知れず掃除をしてくれている人の気配を感じたことだ。私だけじゃない。いろんな人が公のために貢献してくれていた。夜更けのコンビニの店員さんかな?店を閉める前の行列のできるカフェのお姉さんかな?老健施設の夜勤の事務員さんかな?美しい街だ。ますます好きになった。有難いと感じた。

「公の場所を掃除することの価値」、つまり「誰かが貢献してくれていることに感謝できる」ことだった。

とはいえ、誰かに強制されてするものではない。私は「公の場所を掃除する」というモデルに出会っておきながら行動化するのに34年かかってしまった。

これからもやり続けようと思う。

 

 
 
 
 
 
 

 

吃音症だった私