江藤の転機
新堂様
お手紙ありがとう。
大阪のこの町は、来月中には引越しすることになりました。
滋賀で一人暮らしをしていた母が先月亡くなりました。86歳でした。母が住んでいた一軒家を片付けて、僕が住もうと思っています。家賃も浮くし。姉と妹はそれぞれ結婚して家にいないし。ちょうどよかったと言えばちょうどよかったです。おやじが残してくれていたお金を母が残していたようできょうだいで分けました。有難い収入でした。引っ越し費用で消える程度です。
僕が育った家なので懐かしさもあるけど、同級生たちがたくさんいるのでアウェー感があるんだよね。同級生たちはみんな家業を継いで商売したり、滋賀の産物をつくったりしています。高校を卒業をしてからずっとやっている、そんな奴らから僕を見ると、大学に行くと言って大阪に行って就職したのに、病気になって、嫁もいなくて、おかんが死んだからと言って、のこのこ帰ってきた負け組おっさんの代表のように見えるのだろうね。
でも、新堂さんが看護師さんをしていて「病気をきっかけに人生が好転した」という文章にそんなことあるのかなと思ったのですが、「あるかもな~」と思って少し考えてみました。
僕の同僚に先天性の病気がある子どもをもった人がいて、たしかその子の兄ちゃんが医者になったということとか。
僕のいとこは30代で奥さんを乳がんで亡くしたんだけど、男手一つで娘二人を育て、55歳で再婚して今3歳の息子を育てている、とか。
「あるかもな~」と思って記憶をたどり寄せると、案外、いろいろ思い出すものだと思ってちょっと明るい気分になりました。
ありがとう。62歳からでも何かできるかもしれないね。それこそ同級生たちに頼んで仕事を紹介してもらおうかなと思っています。「使えねぇおっさん」かもしれないけど。
病院も近所にしようかと思ったのですが、1か月に1回くらい大阪に行くことがあってもいいかなと思って、新堂さんのいる病院に通院しようと思っています。
これからもよろしく。
江藤
杏奈は、母を亡くした江藤の手紙ではあったが、いつになく明るさを感じた。自分の人生をふりかえって、病気をしたからもう終わりだということがないという人のエピソードに触れていることが伝わってきた。
杏奈は、江藤が自分の育った家で新しい生活をすることを単純に応援したいと思った。そして、少し離れていても、杏奈の病院に通ってくれることが嬉しかった。江藤が外来に来たときは、少し会って話をしてみようと考えた。
江藤は黙々と今の家を整理した。離婚したあとしばらくしてマイホームを売却し、安いアパートに引っ越した。アルバイト生活だから安いアパートが似合うだろうと思ったし、ローンは返せないと思ったからだった。その引越しの際に家ごと捨てるほど廃棄したのに、わけのわからない箱から娘が幼かったころの絵や作文が出てきた。江藤はその絵や作文を見ても感情が動くことはなかった。ただ、あの引越しのときに滋賀に帰っていれば親の介護もできたのにと思えば泣けてきた。泣いていると今まで考えたこともないことが浮かんできた。マイホームは想像以上に高く売れ、ローン返済から解放されたこともラッキーと言えばラッキーだったのではないかということだ。涙が止まらなくなった。
江藤の両親はとも長く床に臥すことはなかったが、それぞれ病院で息を引き取っている。いつも、姉や妹に両親の世話を任せたままだった。江藤は母親の葬儀のときに姉や妹に礼を言ったが、「俺は病気で定職にもついていないんだから仕方ないだろう」という思いがあった。彼女らは家事や仕事の段取りをつけて世話をしてくれていたという想像力にかけていた。今では二人とも孫の面倒も見ているのだからなおさらだ。よく二人とも文句も言わず介護してくれたなと思うと鼻水まで流れていた。もっと、しっかり礼を言おうと思った。古いとはいえ家までもらっておいて、現金を三等分するなんて厚かましい話だと思って恥じた。
たまに江藤が両親を尋ねると二人ともに喜んでくれたが「最近はどう?」と訊かれるのが苦痛だった。別段やることもないのに足が遠のいた。しかし両親ともに年金や生命保険で生活費や入院費を支払ってくれていたので、江藤が両親の生活費や入院費を負担することがなかった。二人とも昭和の高度成長期を支えるかのように働き、蓄えたものを使っていたのだ。そのことも江藤は両親に一度たりとも感謝したことはなかった。今まであまり考えてこなかったことに思いを巡らせていると、いよいよしゃくりあげて泣いていた。
江藤の歪んだプライドが滋賀に帰ることを妨げていただけだった。江藤はようやくそのことに気づいたというありさまだった。
遅いと言えば遅い。でも気づかない人生よりは、気づいた人生の方がやり直しができると江藤は思った。いつになく前向きな自分に驚いた。
続く・・・
これはフィクションです。実在の人物や団体などとは実在しません。