江藤から杏奈へ

 杏奈は深夜勤務中だった。先日、広島を旅行したときに買ってきたレターセットをとりだした。そして呼吸を整えた。ほんのりとお香のにおいがした。ライトアップされた嚴島神社の大鳥居の風景を思い出した。

 杏奈は7月なので金魚の挿絵の便箋にしようか、花火の挿絵の便箋にしようか迷った。江藤にわたす手紙だった。「俺は目が離れているから金魚にしたの?」と言われそうだったので花火の挿絵のある便箋を選んだ。江藤の両目が離れていると思っているのは杏奈の印象である。江藤は自分が金魚に似ているとは全く思っていなかった。

 A病院では医療現場のAI化、とくにAIロボットの進化のため、看護師はおおむね時間にゆとりがあった。とくに深夜勤務はよほど特別なことがない限りスタッフステーションに居ることが多い。看護師の新堂杏奈が勤務している病院では、ゆとりのある時間は患者さんに手紙を書くという仕事を取り入れた。とはいっても、手紙を書ける人は手紙というだけで、音声でのやりとり、対話、写真の交換、ツールはその人の年齢や病気や障害の状態に合わせてさまざまである。A病院の看護部は「患者の人生を表現する時間をつくる」というコンセプトだ。患者が自分の人生の物語を再構築し自己認識を深めるといった心理療法の要素を取り入れた看護である。

 この取り組みを「仕事」として業務化してしまえば、ただの業務に過ぎない。雑に扱えば雑務となる。しかし、人間対人間のやりとりのプロセスを価値のあるものとして取り組んでいる看護師は、便箋を丹念に選び、習字の練習をしたり、洗練された言葉を使うためにコーチングを学んだりした。おかげで看護師の時間の使い方も多様化した。

江藤からの手紙

新堂 杏奈様

いつもありがとう。入院をして、手紙を書くことになるとは思わなかったので少し戸惑っています。

新堂さんは、僕のことをどれくらい知ってくれているのかな。ちょっと自己紹介がてら今までの人生を振り返ってみたいと思います。

僕は62歳です。滋賀県生まれ。K学院大学を卒業して、この会社に入ったら一生安泰だと思い込んでいた会社に入社しました。27歳で結婚し、30歳のとき娘が生まれました。

僕が40歳のとき糖尿病と診断され、薬もちゃんとのんだし、食事も妻が気を使って作ってくれました。しかし、本当に体がだるくてすぐに疲れてしまって、仕事もうまくできなくなりました。

時代の波にも乗り切れず、会社の中でも特に重要でない部署の課長をして40歳半ばで退職することになりました。

その後は病気を理由にすぐに再就職をせず、生活のために慣れないアルバイトを転々としましたが、どれも長続きせず。元の会社では経験のしたことのないことばかりでした。しかも収入にもなりません。アルバイトの大学生に「使えねぇおっさん」と言われたこともありました。退職金も娘の進学などであっという間になくなりました。

僕と一緒に退職した奴らは、再就職したり、起業したり、家業を継いだりしていました。僕には何のとりえもあてもなかったのでうらやましかったです。

糖尿病はあまりよくならず、歯周病になってしまって、それで見ての通り歯が抜けてしまったんです。年齢よりも老け込んだ自分の顔を見るのが嫌でした。

僕のような人間と一緒に居ても妻と娘は不幸になるだけだと思い、離婚することにしました。

妻と娘は実家のある九州に引っ越していきました。実家の農業を手伝って過ごしたようです。娘も結婚をしたようです。

文章にしてみると自分でも嫌になるほど、くだらない人生ですよね。絵にかいたような転落人生ってやつです。

江藤

 

 杏奈は江藤の手紙を読み終えるとため息が出た。両方の肩もいっきに下がった。いろいろ質問したいこともわいてきた。「頑張ってきたじゃないですか!」と叱咤激励をしたくなった。

 江藤の既往歴、出身大学、元の職場、離婚、娘が一人。それらの情報はカルテを読めばわかる。今回の入院は、糖尿病性腎症の重症化を回避するための血糖コントロールの入院だ。

 杏奈は、江藤の手紙を読むまではあまり考えたこともなかった彼の感情に触れた気がした。

 江藤の字は、癖のある右上がりの字だった。筆圧が強い。何度も書き損じたのか、「人生を振り返る」と大きく振りかぶったわりには、今日はこれくらいでいいだろうといった具合に手紙の内容は中途半端に終わっていた。

 杏奈は、江藤が自分の人生を表現する時間をつくるためには、もっと書きたいと思ってもらいたいと考えた。杏奈の経験上、そういう目論見は案外相手に通じてしまってうまくいかないことが多い。肩の力を抜いて書いてみようと思った。

 夜間巡回ロボットが音をたてずにスタッフステーションの横を通り過ぎて行った。と同時に、電子カルテの記載が更新された合図があった。杏奈は、更新された電子カルテの内容を確認した。

続く・・・・

これはフィクションです。実在の人物や団体などとは実在しません。