「待つ」
昨日、主人と二人で和歌山県の白浜に行った。我が家から車で1時間半で着く。これは、お義母さんが亡くなる前から決めていたことだった。主人の定年退職後には、お義母さんと3人で海の見える白浜に住もう!と決めていたからだ。つまり昨日は、白浜の不動産屋さんに行ったのだ。
と、この話の何が「看護師日記」なのか。実は、とても看護なんだ。
視点はたくさんある。お年寄りは適応能力が低下しているので、住み慣れた場所から移動させるのは、負担が大きいのでは?と言う問題。確かに、ご近所づきあいやデイサービスでお友だちができるか、お買い物に行って迷子にならないか、家の構造に適応できるのか・・・・いろいろある。お義母さんは、それでも「白浜に行く」と言ってくれていた。お義母さんの部屋は、トイレが近くて1階がいいだろうと話していた。
結局、お義母さんは急に逝ってしまった。もう、1階にお義母さんの部屋はいらなくなった。
私は主人に「私らも、これから歳をとっていくばかりだから2階の部屋ってしんどいよね~」と言うと「確かに」と返答があった。だれでも、歳をとっていく。静かに適応していっているので、自覚のないものもあるが、確実に衰退している能力がある。できるだけ早い時期から、健康維持のために習慣化できることや、長く続けられる仕事や趣味を暮らしの中に取り入れることは大事だと実感している。
帰りの道のり、主人は「家を買うのは、今じゃない気がする」と言った。主人のその感覚は漠然としていて、私が咀嚼して受け入れるには、少し時間がかかる。いつものことだ。とはいえ、的を射ている。
何をするにも「タイミング」と言うのものがある。それは、感覚でしかない。主人が違和感があるのなら、それが正解だ。今は「待とう」。お義父さんもお義母さんも、そんな不思議な能力の持ち主だった。主人も同じくその能力を持っている。静かに春が来るのを待つことのできる人たちだ。その能力に気づいている私もまた、同じ能力を持っている。ただの自画自賛である。実は、人間の誰もが持っている能力なのだ。人間も自然の中の一部に過ぎないのだから、そんな勘が働くのは当たり前だ。
今がそのタイミングだと思うときまで「待つ」という「勘」。
じゃあ、私のタイミングは、主人に委ねているのかと言えばそうでもない。私が「行く」と決めているときに「待つ」と言われれれば、出鼻をくじかれ「焦り」が生まれる。しかし「待つ」と言う人を動かそうとしても動きはしない。「待つ」と言う人と人間関係を継続していくのであれば、待っている間に、私は私のできることを淡々と、粛々と、着々とするだけだ。
そうこうしているうちに、私のタイミングは、私のタイミングでやってくる。そのタイミングは主人と合うこともあれば、合わないこともある。その時は、どちらかが前を歩けばよい。また、追いかけたり、待ったりしてもよい。常に二人三脚はしなくてよい。二人三脚は転ぶのを楽しむ競技だ。その人が、その人のタイミングで「自立」して生きることを応援する・・・・ほら、看護だ。
子どもが巣立ち、親の介護もなくなり、夫婦は一人の人間同士として尊重し合える時期に来た。
「待つ」、実に「看護」だ。そして「教育」でもある。