そっとそばにいてくれている

お義母さんの葬儀が終わった。

嵐のような5日間だった。私は、どの仕事もキャンセルすることなく、何事も無事終わった。パズルを合わせていくように電車がきて、タクシーがきて、告別式は喪主の嫁ではある私は、堂々とお坊様と一緒に入場した。南無阿弥陀仏のお経の途中まで、呼吸が整わなかった。しかし私は満足だった。すべてうまくいっている、お義母さんも喜んでくれている、と信じて疑っていない。主人や息子も、気にもしていない。あえて言えば、私の実家の母だけは眉間にシワを寄せていた。言いたいことはわかるから何も言うなと思っていたが、案の定「こんな日まで、仕事せんとあかんのか」と言ってきた。「せや」と答えておいた。

昨日は主人と二人で、仏壇の周りをあれこれ掃除した。お義父さんの遺骨とお義母さんの遺骨がある誰も住んでいない家となってしまった。

冷蔵庫のなかには、飲みかけの牛乳とタッパーにはいったキャベツ、白菜。ついさっきまで、ここに生活があったのだ。暮らしていた証が至るところにあった。

突然の死は、急性心筋梗塞というような診断名になっていたが、胸痛を訴えたような顔でもなく、穏やかに眠っているようだった。

火葬後の遺骨は、脊柱管狭窄症の手術をしたあとのチタンのボルトが残されていた。手術をしたあとも、亡くなる寸前までよく歩いていたので、大腿骨も立派に残されていた。頑張ったね、お義母さん。

四十九日が終わるまで、お義父さんとお義母さんと二人で居てもらうことになった。毎日、主人か、私か、お義姉さんか、息子夫婦か、だれかが仏壇に線香をあげることにした。そのあとは、我が家に仏壇を移動させることにした。

仏壇にご先祖さまがあるかのようにして、行動しているが、本当は何が正解なのかもわからない。

ただ、わかっているのは、お義母さんは、私たちのそばにいてくれている気がする。そこに感謝がある。その気持ちが、また、私を幸せにしてくれている。それだけだ。

ありがとう。それだけだ。