私の中の「しずこ」

「私の幸福度は、人類の上位10%以内に入っている」ことを否定しているわけではない。

しかし、私は、時々「悲しい」と言う感情に気づくときがある。明らかに心の「痛み」だ。

看護師をしていた時、自分の感情に「〇」や「×」をつけていた。ポジティブなものは「〇」で、ネガティブなものは「×」だ。そして「×」のものを無いものにしていた。看護教員の時は、悲しみの感情はよく「怒り」の表現に変わっていた。

現職、対象者の方を「お客さん」のように感じ始めていた。「怒り」の感情は、一次感情の「悲しみ」のまま、どんどん内の中に入り込んでいた。ずっと、私の中に座敷童のように心の中に住んでいた。5年ほど(起業して5年たつので)。まあまあ長い。3歳だった座敷童も小学生になった。

この座敷童は案外、自己主張をする。じっとしておけないらしい。悲しみのまま表現されることがないので、「しずこ」と名付けた。8歳、女児である。

たとえば、授業中や研修中に席を立つ人がいる。まあ、トイレか何かなのだろう。実のところ私は、それだけで「悲しい」と感じている。「私の研修、楽しくないのかな~」みたいに反応してしまう。その感情も別に怒りに変わるほどでもないので、そっとしていた。私は「しずこ」を無視していたのだ。

ところが、最近「しずこ」がストレスをためているらしい。無視され続けているのだから仕方がない。早めの反抗期か、退行現象だ。

先日の研修でも、グループ同士の話が盛り上がって、私の話を聴いてくれない。相手も大人なのだから「静かにしなさい」と言うのも「変かな~」と思ってそのまま話し始めた。「しずこ」がいつもよりガサガサする。「しずこ、静かにせんかい!」と言い聞かせた。

私の研修は、いつも小手先だ・・・・と感じた。それが一層、「しずこ」に刺激を与えた。

「しずこ」とちゃんと向き合おうと思う。

もしも、研修中にラーメンを食べている人がいたら、「しずこ」は泣き崩れるだろう。しかし、私は、また「しずこ」を無視する。

いよいよ「しずこ」がかわいそうだ。「あら、ラーメンを食べていらっしゃるの?」と聞いてみよう。「あ、お腹がすいたので」と言うかもしれない。その時は「しずこ」の思いを伝えてみよう。「ちゃんと私の研修を聞いてほしいです。悲しいです」と。「私の研修がもしかしたら、あなたにとって面白くないかもしれないけれど、研修中にラーメンを食べられると、私の自尊心が傷ついて悲しいです」と。

相手がお客さんであっても、看護を学んでいく対等な成人学習者同士なのだから、私の「しずこ」にもしゃべらせてあげようと思う。それで、断られる仕事があるならそれまでだ。「しずこ」の痛みを伝えるので、相手からも何かしらの反応が返ってくる。それが、むしろ私と「しずこ」を傷つける内容であっても、それを受け入れる器を準備した。万全だ。

もう小手先だけで、向き合うのはやめよう。むしろ、相手(お客さん)に失礼だった。私の全人間性と向き合っていくほうがはるかに健全であった。

私は、もっと「しずこ」を愛していく。「しずこ」の思いを表現していく。それが大事だ。

2月まで、ノンストップで授業や研修がある。お休みは、12月31日と1月1日だけだ。もう「しずこ」を無視しない。「しずこ」には、ずいぶん寂しい思いをさせてしまった。ごめん、「しずこ」。多分、「しずこ」はおしゃべりで、クリエイティブなことが好きな個性的なやつだ。私の8歳の時がそうだった。元来の「しずこ」は、自己肯定感が高く、絵を描くのが好きで、花に水をあげたり、小鳥や鯉にえさをあげたりするのが好きだ。あの頃の自分を愛するように「しずこ」を愛してみようと思う。

起業したことで、私は、小手先の評価を気にしすぎて「しずこ」をないがしろにしていた。「しずこ」、あなたのおかげで、私はまた前進できる気がする。そして強くなった気がする。5年もかかったな~。かかりすぎたな~、しずこ。