「当たり前じゃない」を知っている。

私は、毎日のモーニングルーティンの中に「感謝10個」がある。毎朝、10個感謝する言葉を書く。「10個もあるか?」とよく聞かれるが、あるのだ。30個ぐらい書きたいが、手が痛くなるので10個に抑えているほどだ。毎日30秒ほどで書き終わる。

たとえば、

  1. 牛乳おいしかった! ありがとう。
  2. モリモリうんこでた。ありがとう。
  3. コーヒーおいしい! ありがとう。
  4. 電車が時間通りに来た。ありがとう。
  5. メールの返信完了。ありがとう。

・・・・とこんな具合だ。感謝の反対語は、「当たり前」と通り過ぎることと「足りない」と感じることだ。

看護師をしていた頃は、ご飯の食べられない患者さんに、鼻からチューブを入れた。嗚咽する患者さんに「頑張ってくださいね」と言った。便の出ない患者さんに浣腸をしたり摘便をしたりした。痛がる患者さんに対して「もうすぐ終わりますよ。頑張ってくださいね」と言った。残尿感のある患者さんに尿道口から管を入れて残尿を測定した。「痛いですね、ごめんなさいね」とかなんとか言いながらぐいぐい挿入した。

にもかかわらず、病院食のあと、患者さんにおいしいコーヒーを出したことがない。外来の時間が決まっているから、電車の時間やバスの時間を調べて、少し早い目に通院してきた患者さんに対して「少しお待ちくださいね」と言ってきた。そんな日々をうっすらと後悔している。

私が、今日も牛乳を買えるお金があること、買うという行為ができること、飲めること、おいしいと感じること、これらはすべて「ありがとう」に相当する。今まで出会ってきた患者さんと比較しているのではない。私は、身体の自由さや精神の自由さ、経済の自由さを当たり前と思い、永遠であるかのように振る舞っていた。決して永遠ではない。それを目の当たりにしてきた仕事に従事していたにもかかわらず。

だからもっとできていることに対して大喜びしたほうがいい。これは、看護師にとって危険予知能力や感性を鍛える、臨床判断能力を鍛えると同じだ。

「感謝10個」のノートをつけ始めてから、電車が来ても嬉しいし、座ることができても嬉しい。万が一、立っていたとしても、筋力があることに感謝できる。感謝感知能力が上がったと思う。だから、幸福度も上がったのだと思う。

コロナ禍になってから、いろいろな仕事のキャンセル、キャンセルが相次いで、リモートの授業以外は白紙になったカレンダーを眺めながら、私は誰からも必要とされていないのではないかとさえ思った。そんな思いをしたことが今となっては、仕事があることが嬉しくてたまらない。「看護師なんだから、いくらでも仕事があるでしょ」と言われることもあった。

「看護師は仕事がある」、確かにそうかもしれない。しかし、あるだけでは仕事とは言わない。それなら起業なんかしない。やり続けない。

仕事には、私事、志事、師事、支事、施事、使事、嗣事、試事、資事・・・・たくさんの「しごと」がある。何をしたいかは、人それぞれ違っていていい。

一つ一つ忙しいと言って、通り過ぎないことが大事だ。感謝ノートは一生書き続ける。そして私の棺に入れてもらう。