完成しなくてもいい絵

この間、人間が与えた文章に基づいて画像を生成するAIの「Midjourney(ミッドジャーニー)」の存在を知った。なかなかのクオリティで絵が描くことができている。オンライン上で、共有し合って楽しんだ。

Midjourneyは写真や絵画などの説明文を与えると、それをイメージしたイラストを生成してくれる。私は、「私の好きなこと」の一つに「絵を描くこと」があった。看護師になって、子どもたちとキャンプに行ったときも、精神科の作業療法に参加したときも、絵を描くことは「好きなこと」「楽しいこと」だったのであっという間に時間が過ぎた。

いつか、夢中で絵を描くことがセラピーになる人に大集合してもらって、日が暮れるまで一緒に絵を描いてみたいな~と思っている。きれいな夕日に向かって絵を描いているんだけど、スケッチブックに描いているものは、夕日でも、景色でもなく、感じたもの・・・・みたいなそんな絵だ。デッサンが苦手で美大をあきらめた私には、風景画を描くのは修行でしかない。そもそも、私は、自分で修行だと感じているのに風景画を描こうとしていたのか。

そして、「Midjourney(ミッドジャーニー)」の存在を脅威に感じるのか。

私は、いよいよ自分で「アホだな」と思った。

絵を楽しむことにルールなんてあったっけ?自由に描けばいいのだ。誰と一緒でなけれなばならないこともないのだ。プロの絵を描く人と、プロのデザイナーさんと、Midjourneyとそもそも同じ土俵の上にいない。厚かましいにもほどがある。私は私なのだ。

と、開き直り、私は昨日、コーナンに行ってスケッチブックを買ってきた。マジックでザクザクと絵を描いてみた。私の絵は、下書きも何もいらない。絵を上手に描こうと思わなくていい。鼻はこんな形でいいかな?と思わなくていい。単純に、白い紙を見ると何か描きたくなる人なのだ。そして、途中で投げ出す。また違うページに描く。投げ出すかもしれないし、完成するかもしれない。完成しなくてもいい。そもそも完成が目的ではない。描いているという時間が私にとっての瞑想なのだ。私は、思考で描くことから解放されているのだ。それを楽しむことが目的だ。

私は、看護師をしていても、絵を描いていても、晩ご飯をつくっていても、すぐに何かに縛られる。

昨晩は、エビフライをつくった。主人にはあったかいフライを食べてもらいたいので、帰ってくる時間が気になってたまらない。しかし、主人は「冷えたエビフライはまずいね」と言わないとわかっている。「あれ、まだ晩ご飯できてないの?」と言わないとわかっている。アツアツのエビフライをグッドタイミングで差し出したいのは自分であって、誰からも求められていない。にもかかわらず、求められているかのようにふるまう。それを30年以上も続けてきた。めんどくさい日も、何もメニューが思いつかない日も、なんとか体裁を整えてきた。30年もやり続けたことは、当たり前になってしまって疑わなくなる。

自分の思考の何かに縛られて、本当はしんどいのに習慣としてやってしまっていることや、特にやりたくもないのに何となくやっていることの中にも、「自分らしさ」を奪っているものがある。

私は、完成しなくてもいい絵を描いてから、短期大学の幼児教育科の講義に出かける。キャンプナースの講習会とのコラボを想定したり、心臓や腎臓の絵を描いてもらったりしながら、講義の概念に縛られず、お互いに充実した時間を過ごしたいと思っている。とても楽しみだ。