総じて私はラッキーな人だ
私の人生を振り返ってみると、随所に「ピンチ」に陥っている。
二進も三進もいかないこともあった。にもかかわらず、今ここでおいしいコーヒーを飲みながらパソコンの前に座っていられるのかと言えば、誰かが助けてくれたからだ。
私は、夜眠れない日が続き精神科受診をした。今も内服中だ。円形脱毛が6つできた時もあった。今も一つできている。ここから飛び降りたら楽になるのかなと思い屋上の風に吹かれていた時もあった。今はない。そんな時、いつも助けてくれる人が現れる。
私は、ちょうど20年前くらいに大阪府の専任教員養成講習会を受講した。その時、母性看護学グループが、マタニティブルーズについてのロールプレイングをしていた。看護学生にどう教えるか、教材研究をしていたのだった。しかし、たまたま、私はそのロールプレイングに登場したお母さんと私が以前抱えていた悩みが一緒で、講習生のアドバイスが心地よく腑に落ちた。そして、私は地に足がついた気持ちになった。もちろん私を助けるためにしているロールプレイングでないが、私は明らかに救済された人になった。
教員として悩んでいたころ、広報活動として、ある高校で授業をした。その時、高校生から「看護師をしていて、一番つらかったことは何ですか」と質問された。不意を突かれた。「やりがい」だとか「嬉しかったこと」などは、よく聞かれる。しかし、「つらかったこと」を聞かれたのは初めてだった。私が看護師をしてつらかったことは、「自殺」に出合ったことだ。何度かある。私も含め、たくさんの医療者が自殺をした患者をケアしているにもかかわらず、自殺したいほどの苦しみを一人で抱えていたことを理解できていなかったのがつらかったと話した。話をしているうちに、自分の腕に鳥肌が立つのを感じた。私は、つらかったことを正直に言えずにいたのだと思った。つらいと言えば、責任を問われるのではないかと感じていた。私が見落としたのではないかと咎められるかもしれないと自己防衛していた。私はいつも逃げてばかりだ。だからつらいのだ。だから真実がわからずに悩むのだ、と思った。話し終えた脱力感は、今も記憶に残っている。しかし、あの高校生が質問してくれたおかげで、また、地に足をつけて自分の足で立っている感覚を取り戻した。私は、逃げてばかりだが、同時に駆け抜けてきた人でもある。
自宅の最寄り駅の地下鉄の階段は、こんなにも長かったかと思うほど疲れ切っていた日があった。もうすっかり、我が家は夕ご飯も終わっている時間だ。手に持った荷物が重たすぎる。階段の途中でいったん荷物を下ろした。地下鉄の階段から地上と夜空がみえる。その夜空にまん丸のお月様がみえた。月の明かりに導かれるように階段を上がり切った。私が、気にも留めていないときもいつも月は私たちを照らしていた。今乗ってきた地下鉄も誰かが運転してくれている。誰かが安全を守ってくれている。帰る家がある。荷物の中には、自分で買いそろえたものが入っている。それらは誰かの手によってつくられ、販売され、私の生活を支えてくれている。そんな当たり前のこともわからなくなっていたのか、私は一人で頑張って生きているとでも思っていたのか、と思ったら泣けてきた。また足の裏に、地面の感触を感じた。自宅に向かって歩いているとすれ違った若いカップルがキャッキャと笑顔で話をしていた。彼女が彼氏に「大丈夫やって!」と言った言葉だけが、私の耳に届いた。「そうだ、大丈夫だ」間違いない、私もそう思う。また、やり直せばいいと思った。
総じて私はラッキーな人だ。カウンセリングを受けなくても、誰かが助けてくれる。ときには、それがお月様の時もある。
私は、誰かの役に立っているだろうかと思うことをやめた。私は私として自分のやれることをやって生きるだけだ。役に立つこともあるし、役に立たないこともある。すぐに結果が出ないこともある。人を傷つけた時は謝る。これだけだ。また、ピンチになったときは、足の裏が地面についているか確認する、それが私のピンチ脱出方法だ。