恋愛観

解離性障害、いわゆる「解離」とは、意識や記憶、知覚、アイデンティティが、一時的に失われた状態のことだ。この状態のときは、意識、記憶、思考、感情、知覚、行動などが分断された体験をするらしい。

子どもの防衛反応として「解離」が働くことはよくある。たとえば、親に怒られ過ぎてぼうっとしてしまったり、その時の記憶がなかったりとかである。これは一過性の症状のため治療は必要ない。しかし、何らかの原因によって引き起こされる「解離」は、治療が必要だ。主な原因としてあげられるのは、心的外傷体験によるストレス障害、幼少期の養育者との愛着問題などがある。幼少期に虐待やネグレクトを受けているという報告もある。

解離性障害には、個人によって異なる多様な症状がある。私が出会ったAさんは、30歳の女性だった。ストレスのある環境にさらされたとき、「解離性昏迷」の状態に陥る。解離性昏迷は、急に、身体を動かすことや言葉を交わすことができなくなる状態だ。Aさんは、随意運動、発語、光・音・接触に対する正常な反応が消失してしまう。しかし、筋緊張は正常で、静止姿勢や呼吸機能はそのまま正常な状態なのだ。

Aさんの場合は、3日足らずで元の状態に戻る。Aさんは、とても物静かな印象がある。でも恋愛の話はオープンに話をしてくれる。最初にお付き合いした人は、大好きだった彼女と別れたばかりの男性で「たぶん私のことは、2番目に好きな人だったと思う」。うんうん。「それからは、奥さんや子どもさんがいる人ばかり好きになった。だからいつも私は、いつも2番目」。うんうん。「1番じゃないと意味がないよね?」「1番って?」「1番好きの地位」「なるほど」。

1番好きの地位につきたければ、単純に彼女と別れたばかりの未練たらしい人とか、奥さんのいる人を回避したらよいのでは?と思うが、そんな簡単な話ではないようだ。Aさんは、ゲームをするように恋愛をするのだと思った。UFOキャッチャーみたいに落とせば勝ちのゲームだ。

「奥さんと別れて、Aさんと一緒になりたい」と言われても全く信用できないらしい。でも、1番なんだろうなと思うときは嬉しいけど、2番に転落するときは、悲しいし悔しいと話す。常に、永遠の一番を求めていると感じた。求めさせられているのか、一番である必要があるのか、わからなかった。

Aさんは何を基準に何と戦っているのだろう。Aさんが解離性昏迷を起こすときは、いつも彼氏とのトラブルではない。母親と一緒にいるときだ。母親は40歳を過ぎてからAさんを生んだ。二人の間に何かがあるのだろう。それが、Aさんの恋愛観につながっているのか、と思いながら聴いていた。過保護だと思うほどお母さんは何でもしてくれる。永遠の愛をすでに獲得しているのではないか。お母さんじゃダメなのか。それともお母さんの愛はAさんが欲しい愛じゃないのか。思案の種は尽きない。

Aさんが欲しいのは、自分が操作できるコントローラーなのか。Aさんは、お母さんといると、自分じゃなくなってしまうのか。Aさんの母子関係において、私は「一緒!」を感じた。ただの投影にすぎなかった。「一緒!」と言われても誰もうれしくない自己満足だ。

私は、Aさんの恋愛観を聴きながら、もう一歩話を踏み込んで聞いてしまいそうになった。もちろんお母さんとの関係性についてだ。でも、踏みとどまった。精神科医や心理士やほかのメンバーと話し合ってからにしようと思った。Aさんが自己分析する恋愛パターンは、私以外の誰かにもしているはずだから、専門家の話も聴いてみたいと思った。

一人牛歩といわれても、Aさんの人生を歩めたらいいなと思った。しかし、この願いが、すでに押しつけなのだ。Aさんには、届けないほうがいい。E.フロムいわく「人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない」。私は、Aさんに何もしないということに意味を持たせた日の思い出だ。

「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。