学生の学びに役立っているのか

私は、看護専門学校の教員をトータルで13年やってきた。振り返ってみると、看護師をしてきた15年間よりもはるかに短く感じている。

私は、けっしていい教員ではなかった。そもそも教えるのがへたくそだ。コーチング的かと言えばそうでもない。言葉のチョイスを間違えて学生のモチベーションを著しく下げることも日常茶飯事である。感情をむき出しにし過ぎて学生をビビらせてしまった。そもそも何を言っているかわかりにくい。あげだしたらきりがないくらい、私は、教員としてはポンコツだ。そして、そのポンコツぶりは、年齢を重ね指数関数的にひどくなっている自覚がある。

あちらこちらの学校に行ったり、オンラインセミナーをしたりすると目の覚めるようなグサッとくる評価をもらうこともある。ただ、そんな評価に限って、的を射ている。おっしゃる通りだ。あえて、褒められることは「笑顔」だ。笑顔もコロナが私に教えてくれたテクニックの一つだった。オンラインで唯一、非言語的にメッセージとして伝わりやすいのは笑顔だ。これは、日常的に使えることなので継続していく。

起業して間もないころだった。あちこちの学校(看護学校・美容学校・高校など)で非常勤講師をせっせとしていた頃だった。ある学生から、「先生の話は、あっちこっち飛びすぎる。結局何が言いたいかわからない。」「一文が長い、オチがどこにあるかわからない」とコメントを書いてくれていた。私の教育力を高めるために時間を費やしてくれる人だった。軽く傷つきながらも素晴らしい意見だと思った。むしろ、私は、これさえクリアできたら、ものすごくわかりやすい授業になるのではないかと思った。

「え~と」「それで~」とか言わずに、ぱしっぱしっと話せたら、気持ちいいだろうな~思う。もちろん何度も挑戦している。コロナ禍は、オンデマンド型の授業もたくさんした。自撮りして、動画編集もして、授業や研修として使ってもらった。地味な作業のうえに自分の表情や知識量と向き合わなければならないという苦悩と葛藤の日々だった。自分の不甲斐なさに気分が落ち込んだ。それでも、「え~と」「それで~」をすべてカットして、字幕を入れると、若者に支持されているYouTuberのようにテンポよくなった。テンポはよくなったが、ほんとにこれで学べるのだろうか、と疑問になった。聞き流しにはちょうどいいだろうが、記憶には残らない。おばちゃん動画のダダ回しよりはましかもしれないが何かがおかしい。と言うより、学生の学びに役立っているのかと言うことに疑問しか残らない。

私は、ほとんどしゃべらなくてもいいのではないか?とさえ思うようになった。「何する?」から話し合ってもらうとか。

この間の授業は、教材5つから、深めたい内容を深めていくという授業をした。「国際看護」の授業だったので、5つの教材は「世界経済フォーラム版 男女格差指数について」「スイスで安楽死の権利を得た日本人について」「西ラップランド地方の『オープンダイアローグ』について」「相対的貧困率について」「世界幸福度ランキングについて」である。スマホでの検索しながら、口々に意見を述べ合っている。少なくとも、自分で調べてグループ内で発表した内容や、グループ内で意見が対立したり、解釈が違う内容について話し合ったことは印象に残ると思う。今後、どう活用していくかは、学生の力に任せてもいいと思っている。その授業を終えた時の学生のレポートは、読んでいて楽しかった。留学経験を生かしていきたい、就職氷河期で苦戦したこと、幸福についての定義の違いなど、様々な観点から書いてくれていた。こんなレポートを読むことが楽しくて、私は今の仕事を楽しく続けられているのかもしれない。

私の今までの教育は、歩くことのできる患者さんを「転んだら危険」「歩くと時間がかかる」と言って車椅子にのせて、「リハビリ室まで行ってきます~」という業務をしている看護師に等しい。

とはいえ、今もなお、看護教育に携わっているのには理由がある。看護も教育も「探究しがいがある」と思うからだ。

時代や環境の影響を受けながら、また、私の時代と学生の時代のものの見方や価値観が違うことを探りながら、互いに「他者」として、理解していくプロセスは楽しい。その時、私のこころに、ちょいちょい垣間見る「教員」という傲慢さ、実に醜い。漫才のコンビでいえば、「よくしゃべる人」「ネタを書いてる人」とか言われ、あからさまな上下関係があり、対等でない関係性が視聴者に伝わる感じだ。時代は変わったんだと思う。子どものころ見ていたドリフターズは、いかりや長介の圧倒的リーダー感が伝わっていて面白さになっていた。たけし軍団を率いるビートたけしが暴力事件を起こしても、当時は社会からニーズはあった。

今は、違うんだ。気づけば、違っていた。

私が今「おもしろいな~」と思うことは、相手も面白いかもしれないし、そうでもないかもしれない、と言うことだけだ。

これからも、私は「看護」と「教育」を面白いものにつくりあげていくような気持ちで取り組んでいきたい。