意味もなく涙が出てくるとき

精神障害がある人たちの生活を地域で支えるための作業所が、小規模通所授産施設となり、自立支援法に基づき就労継続B型・地域活動支援センターとして運営されている施設がある。私は、その施設が通所授産施設の頃に学生の実習に教員として引率していた。

精神障害のある人ばかりでなく、社会生活のしづらさを抱えている人たちが集まっているように思う。カラオケを歌っても、順番を気にしたりしない。誰かに止められるまで延々と一人で歌っている。同じ歌を歌うので、一日中、私の頭の中でリピートされる。絶大な存在感を放っている。その歌を何度も歌う人だということなだけだ。

寝たい人はゴロンと横になって、いびきをかいて寝ている。その人は「夜は眠れない」と不満げに話す。「お昼寝しているからですかねえ」と学生が心配そうに声をかけていた。本人は「夜は寂しくて眠れない」と答えていた。「ここは、みんながいるから眠られる」そうだ。「ここは安心なんだな~」と思って聞いていた。学生は怪訝そうな顔をしていた。今はピンとこないらしい。「眠れないほど交感神経が昂る『寂しさ』を味わうこともあるんだよ、人生は」と言うと「先生も何かあったんですか?」と聞き返されると面倒なのでそっとしておいた。二人でいても、大勢といても寂しい時は寂しい。一人ばかりが寂しいわけではない。

行きたい人は、一緒に晩ご飯の買い出しに行く。そしてやりたい人は、一緒に晩ご飯をつくる。みんなで晩ご飯食べる。食べたくない人は食べない。

とにかく自由だ。自由と聞くと時々「何もしなくていいのか~」みたいな気持ちになる。でも「あれもこれもできるんだ~」も忘れてはいけない。社会の中で「できないこと」が目立つことがある。でも「できること」もある。どちらかに分類する必要もない。

人より秀でてできることばかりができることではない。気合や根性を入れなくてもさらりとできることは「できること」だ。あまりにもさらりとできてしまうために「できる」ことに気づかない。

私は学生と一緒に精神障害のある通所型施設の実習に行って、学生が精神障害のある人とお話をしているのをうっすらと眺めながら、ほぼ何も考えずにぼんやり座っていた。何もせずに座っていも誰からも何も言われない。誰からも何も言われないからと言って、この場所で、教員と言う立場にもかかわらず、うすらぼんやり座り続けられるのは私の得意技である。「できる」のだ。

得意技の裏には、「今日の私の服、おかしくない?」「私の髪型、変じゃない?」「私の使ってる言葉、人を傷つけてない?」「私は、これでいい?」「私は生きていていい?」などの細々とした日常の問いに一つ一つ、気を使わないとずれていく。ずれていくばかりでなく、自分軸がぶれていく。それが私の劣等感だ。得意技と劣等感は背中合わせにある。

だから、いくらでもここに座っていられる。そして、何もないのに泣けてくる。ここまでくると、一番病んでいるの私だ。空間が私を癒してくれていた。

そうだ。私はボロボロだったんだ。だからといって、後悔しているわけではない。ボロボロだった頃が自分を強くするし、本当の自分を発掘するための準備期間でもある。

毎日毎日、荒波のような苦難や変化がやってきても、何とか乗り越えられる気がする自分がいる。反面、さざ波のような細かな波に船酔いしそうになる自分がいる。凪の時は退屈しすぎて生きている価値を失う自分がいる。

私は荒波に強い。と言うより、荒波の時に、さざ波(細々とした日常の問い)を気にしなくて済む。私は、荒波の方へ、荒波の方へ進めば、自分の強みを生かすことができると思う。「それもしんどいよ」ともう一人の自分がささやく。「今のままでいいんじゃないの」と二人目の自分がささやく。どれもこれも自分だ。ストッパーAさん、Bさん、ありがとう、君たちがいないと私は暴走者になっていた。

看護師の仕事は、時々、患者さんや家族の感情に引っ張られ過ぎて、あやうく自分を見失うことがある。見失ったままの自分で、他者と向き合うのは危険だ。さらに自分を見失いクラゲのように浮遊する。そんな時は自分を探しに行かなくてもいい。「見失っている」に気づけばいい。そのうち取り戻す。意味もなく涙が出てくるときが自分を取り戻しているサインだ。

居心地のいい場所で充電をして、またやり直せばいいと思う。私もまだ、道のりの途中だ。

「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。