ほかに並び立つ者はないと信じてやまない存在
彼女は、中等度の知的障害があった。
生まれた時の諸々の事情によって、施設で育てられた。
施設を出て、社会の中で生きていくためには逆境すぎた。
しかし、何か問題を起こすか、発症するか、お金が無くなるか・・・のような出来事が起こらない限り、警察、医療や福祉、行政は動けない時代が続いていた。過去形にしたい。
彼女にどんな経緯があったかはわからないが、今は施設に入所している。
家族と呼べる人は一人もなく、友人もなく、面会者もなく。
過去から現在に至るまで、いつも大勢の中の一人だった。
お誕生日のお祝いも、6月の誕生日の人の中にこっそりと混ざっていた。
そんな彼女を看護学生が受け持つことになった。
学生があいさつに行ったとき、満面の笑みだった。
彼女にとって、特別な人が現れたからだ。
散歩にも行った。花を触って「きれい」と言えば「きれいですね」と返ってきた。
彼女は、トレーナーがびしょびしょになるほど涙をこぼして泣いた。「うれしい。たのしい」と笑って泣いた。
彼女が、自分として生まれてきてよかったと感じる出来事を増やしていく・・・・
人間には特別な存在が必要だ。誰よりも自分が愛されている、そして愛しているという存在だ。もちろん感情の話ではない。
障害や病気があっても、性分に癖があっても、それを受け入れてくれる存在だ。
その他大勢の中の人ではなく、ほかに並び立つ者はないと信じてやまない存在だ。血のつながりなど無縁の次元である。
もしも、母という者に抱かれる時間が少なく、「愛されること」を学ばずに年老いたとしても、今からでもやり直すことはできる。
今、今、今、今の積み重ねで「愛されている」と感じることができたら、彼女は奇声をあげて人を呼ばなくてもよい。
愛されているという充足感によって、次会うまでの時間さえ厭わなくなる日が来る。
愛されることを再習得してもらうことは、看護師の役割であると思った。
「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。