思考の脱皮
「なぜ、こんなにも過酷な人生を歩んでいるのだろう」と思う患者さんや家族に出会うことがある。
看護師が知り得るべき情報は、事実の経過と患者さんの感情や思い。
いろんな出来事に目が奪われ過ぎて、患者さんの輪郭が見えなくなる。そして、入院の目的がみえなくなる。
たとえば、卵巣腫瘍を摘出する手術を受けることが目的の患者さんが入院してきたとする。
その腫瘍が発見されたのは、望まない妊娠がきっかけだった。だから患者さんは、手術のことよりも、妊娠した経緯や堕胎への悲しみや怒りを表現した。裁判をするかどうかで頭がいっぱいだと声を震わせた。
しかし、私たちは患者さんが卵巣の腫瘍を摘出する手術を無事終え、合併症なく社会復帰することを全力で支えることを優先する。なぜなら、私たちは、患者さんの健康な状態を整え、患者さんが選択する様々な課題に取り組む力を発揮できる土台をつくることが本分だからだ。
もし、その卵巣腫瘍が末期癌だとしたら?
患者さんの望みと私たちの使命に齟齬が生じ、患者さんは「何もわかってくれない、誰もわかってくれない」と言うかもしれない。
そのときは、またそこから患者さんと一緒に話し合いを始めるほかない。患者さん抜きのカンファレンスは時代遅れだ。
多様化する価値観に寛大であり続けるために、何度でも私は、私の思考を脱皮させる。
「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。