もっとできるのにな~

私は、人に期待しすぎることがある。

患者さんに対して、上司や部下に対して、学生に対して、家族に対しても、期待しすぎることがある。

私が期待してしまうのは、自分への承認ではない。「褒めてほしい」と期待することは不思議とない。

私が相手に対して期待してしまうことは、「もっとできるのになあ~」と思うことである。

たとえば、糖尿病の患者さんが、入退院を繰り返していると「すごく病気のことも、食事や運動のことも理解できているのにな~」と勝手に期待してしまっていて、勝手に悲しい気持ちになってしまう。「あんなに理解できていたのに、どうしたんですか!?」と言いそうになる。少なくとも「何かありましたか?」は聴いてしまう。納得のできることも、納得のできないこともあるが、いずれにしても私が勝手に期待しているので、悲しい気持ちは払拭できないのだ。

部下や上司、学生に対しても同様の経験がある。「もっとできるのになあ~」と思うことである。

これらの感情はすべて、「甘え」からくるらしい。土居健郎「甘え」理論と精神分析療法によれば、近い存在(家族)に対して、「わかってくれるはず」という甘えになるらしい。私の場合は、その甘えが期待となって「もっとできるのにな~」と言う気持ちになる。「もっと、あれもこれもしてくれたらいいのにな~」になることさえある。最近の主人は、「いいよ、いいよ、そこまでしてくれなくても」と言うほど家事をしてくれる。これも一線を越えると「私が仕事ばかりして、家事をさぼっているってことを言いたいの!」みたいな被害妄想になることもある。今の時点では、ありがたく家事をしてもらっている。しかし、家族とは言え人間の距離感は油断大敵なのである。

上司に対しては、役割に対する「甘え」がある。「やってくれて当たり前」と言う甘えが期待となって、「もっとできるのにな~」と言う気持ちになる。「もっとわかってくれていると思った」「もっと話を聴いてくれると思った」とか、「もっと、上司なんだから・・・・」とか。「~すべき」を人に求めると自分の首を絞めてしまう。私がしんどくなる原因は、自分に対しても人に対しても「~すべき」がやたら多いことだ。

部下や学生に対して「もっとできるよ~」という期待が大きい。しかし、部下や学生にとってはこれほど迷惑なことはない。期待が大きい分、言い過ぎることは多分にある。それもまた「甘え」だ。信頼関係が築けていると思っているのは私だけで、相手はどう思っているかわからない。信頼関係のないところに「甘え」を持ち込んだら、「ここまで言っても大丈夫」の境界線を越えてしまうことがある。そのうえ、部下や学生が、私に対して「甘え」を抱いていたらどうなるだろうか。「甘え」×「甘え」である。ほぼ空中戦である。長期化しないようにやり直しを計画していこう。

時々、「期待していますよ」といって、中途採用看護師を「ウエルカム」といって受け入れる人がいるが、この「期待」は怖い。この期待に応えようと一生懸命頑張ってしまう看護師、期待に応えられませんでしたと言って落ち込む看護師が生まれてしまう。

「もっとできるのにな~」は抽象的過ぎるので、「私はどう思っている、あなたは?」と話せる関係性をつくっていくことから始めることは大事だな~と思う。ただ、それができたからと言って、長期的に維持できるとは限らないので、忘れたころにやってくる「甘え」と「期待」なのである。

私が非常勤で授業をしている高校生、看護学生は私の息子より若い。病院や施設研修に参加してくれるプリセプターさんや学生指導者さんでさえ、親子ほど歳が離れ始めた。すべて、歳の差のせいにするつもりはない。歳の差がもたらすものは「価値観」の違い、つまり「~すべき」の視点の違い、年齢差や立場による「甘え」の違いだ。

看護師は、なんといっても多様な価値観の他者をケアするので、自分の「甘え」に気づき、私の「期待」はほぼほぼ無意味なものだということを、繰り返し認識していくことが大切だ。

私は、下記の写真の気球に「甘え」と「期待」をのせて、自分のもとから解き放していこうと思う。

「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。