あなたのためになっていますか。
長い長い闘病生活となりました。Aさんは、若い時に統合失調症と診断され、以後入退院を繰り返しながら、80歳になりました。
両親は他界し、兄弟も友人もみんな歳をとってしまいました。
Aさんは、統合失調症の症状に加え、認知症も併発しているようです。
ご飯を食べることも、たくさん歩くこともできなくなりました。これといって何をするわけでもなく、一日を過ごしています。「おとなしい患者さん」と言われています。
専門家チームは言いました。座ること、立ち上がることは、認知機能にいい、と。
関節を動かしましょう!筋力を維持しましょう!頑張りましょう!と。
でも、Aさんは、関節を動かすたびに顔をしかめています。
もしもまた転んで骨折したら、手術するんですか。点滴するんですか。安静にするんですか。紙おむつですか。
もしも「ここがどこなのか?」「わたしがだれなのか?」わからなくなってしまって、点滴を抜いてしまったら、拘束するんですか。
何日も食べなかったら、鼻からチューブを入れるんですか。
いつ、点滴やチューブは抜くんですか。
そもそも抜けるんですか。
矢継ぎ早にAさんから質問されているように感じました。
私たちがやっていることは、あなたのためになっていますか。今、幸せですか。心の中で質問返ししてみました。
「今、幸せですか」と聴きたい衝動に駆られるのは、「幸せそうではない」という前提があるからでしょうか。
もしも幸せそうでない人が目の前にいて、「看護」は無力なのでしょうか。
「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように一部修正しています。