遺骨とお墓
お箸のマナーにはいろいろある。箸渡しは、箸から箸へ料理を受け渡すことだ。火葬後の遺骨を拾う際に、箸から箸へ遺骨を渡してから骨壺に納めるので嫌われるのだと教えられた。あとは、たたき箸は食器を箸でたたくことだ。これも昔から「茶碗を叩くと餓鬼が来る」と言われているらしい。餓鬼が来たことを見たことはない。茶碗をたたかなかったからではないと思う。それから、ご飯の上に箸を立てるのも仏式の葬儀で用いられる枕御膳なので忌み嫌われたりする。
そもそも私は、お箸の持ち方も美しくないので、何とも言えないのだが、お箸のマナーの中には、葬儀の文化と関係していることがあるが、なぜそれが忌み嫌われ、そしてマナーになっていったかはよくわからないまま、言い伝えられていることも多い。
この間、人気YouTuberが、お箸で茶碗をかんかん叩いて歌を歌っているのを見て、餓鬼も来ないし時代も変わったと思った。何より炎上していない。
私は火葬場で親や親せきなど、お骨を拾う場面に立ち会ってきた。火葬場では看護師の仕事はないが、死後のケアをするときは、お骨になるときのことも考えて、ご家族と話し合うこともあった。最近は葬儀屋さんが何でもしてくれるようになったが、何かと相談されることもある仕事ではある。ただ、決して答えを求めていない。答えはすでに相手にある内容である。
祖母の骨は、人工関節以外、粉々で拾う骨を探すのに難儀した。1年間の療養生活と骨粗鬆症などが要因だ。父の骨は、右側が麻痺していたので、左半分のみが人の形をしていた。若くして亡くなった従弟は人体モデルのような遺骨だった。お義父さんの葬儀は、コロナ禍で本当に簡素化した。箸渡しもせず、骨壺に入れていった。これからは、葬儀の方法もお墓の在り方もどんどん変化していくのだと思った。
骨になったんだなと言うことに感情の移入がないことが自分でも不思議なほどだ。
私は棺に入ったとき、何と言われたいか。ドラッガーの問いのようなことを考えてみたり、そして私の遺骨は、私の形を成しているのかと考えてみたりする。そもそも私は、遺骨の形を残すような死に方をするのかとも考えた。例えば、遺骨さえ手元に戻らないという事故や災害もある。私は、私の遺骨があろうがなかろうが、残された人たちには、悲しまないで欲しいと伝えておきたい。そもそも悲しまれるかどうかもわからない。さらにいえば、そんなことを考えるのは、全くのおかしな話だと思う。
しかし、考えてしまう。
昨晩、とてもお世話になった人が亡くなっていたことを1年間も知らずにいたことを知ってしまったからだ。ずっと、お元気だと思っていた。また会いたいと思っていた。いつか会えると思っていた。我が家は「あの人がいなかったら」と思うとぞっとするほどご恩を感じていた。
人が死ぬというのは、こんなにあっけないものなのか。それなのに、日常生活のお箸の上げ下ろしのマナーにまで根付くのか。
駅のホームから空に向かって、感謝の思いを伝えた。彼が愛したマウンドから見る大空と同じだからだ。感謝の涙が出る。「ありがとうございました。」それ以上何もない。
いつも、立ち寄るお店の店員さんに、新しいリストカットの跡があった。会計をすませたあと「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言っておいた。私にできる看護だった。
私は光源氏の登場人物で朧月夜が好きだ。だから、私が死んだら、おぼろ月を見て思い出してもらうように、今から公言しておこう。