健全な「孤独」と「寂しさ」

私は、ある看護系大学で、偶然にも同じ看護学校の出身の先輩2人に出会った。なんという懐かしさ。ここで、再会しなければ、もう私のワーキングメモリーを保持するために削除寸前の記憶であった。

先輩方は、私が1年生のとき3年生だった。みんな寮生だった。当時、和歌山から大阪に出てきたばかりの私にとって、3年生の先輩がとても大人で綺麗で、本当の看護師さんのようにかっこよかった。3年生にとって、私たちは1年生は「新人類」だったらしい。

寮は、1年生と2年生が混合の4人部屋だった。こたつが一つあって、二段ベッドが両サイドにあった。門限は21時、起床時間は6時30分、消灯時間は23時だった。消灯時間の23時になるとこたつのコンセントも1階の管理室に返しに行った。そして、21時の門限が守られているか寮の当番が各部屋に点呼に回る。1年生が3年生の部屋に入るときは、入り口の板の間に座って正座するという昭和感覚あふれるルールもあった。

私は、今でも早寝早起きなので、消灯の23時や起床の6時30分は全く苦痛ではなかった。消灯前に寝ていることの方が多かったので、こたつのコンセントを持っていくのを忘れて起こされることもあった。私が最も苦痛だったのは、朝食の食パンを焼いて、冷えた給食用の四角のバターを塗ることだった。程よくバターを溶かしておかなければ、トーストに穴をあけることになるからだ。今から考えると取るにたらない話ではある。しかし当時の私には重大イベントだった。3年間は摂食障害もあり、丸々と太ったり痩せたりした。夏休みと冬休みだけ生理があった。

こんな寮生活も昔話だ。再現したいとも思わないが、今となればそんな時代だったんだなと懐かしく思う。

ただ、母校愛みたいなものは確かにある。母校だけではなく、出身地や働いていたところ、所属しているオンラインサロンなど、なにか愛着がある。きっと、そのコミュニティの中で、楽しいことを共にしたり、もめごとを起こしたり、悩んだりしているうちに、自分と深く向き合い、他者を理解しようと努め、その繰り返しが人と人をつなげていくのだと思う。

看護師をしている頃、ご主人を亡くした奥さんが死亡診断書を取りに来たあと、ご主人が亡くなった私たちの病棟に来てくれた。「本当にお世話になりました。」と言って深々とお礼を言ってくれた。そのあと「私も死ぬのならこの病院で死にたいと思います。その時はよろしくお願いします」とおっしゃった。私たちは、エレベーターホールまで見送った。

奥さんが言った言葉の真意は、よくわからない。ただ毎日毎日、面会に来て、1日1日衰弱するご主人と向き合っているうちに、自分とも向き合うようになり、医師や看護師たちともつながっていったのだと思う。

しかし、どこにも永遠の居場所はなく、卒業や退院、別れ、期限などがある。

健全に「母校愛」などの「○○愛」が満たされるためには、健全な「孤独」と「寂しさ」に向き合わなければならない。一見するとポジティブな面とネガティブな面のように感じるが、それら全体を含めて「○○愛」なのだと思う。どちらか片方だけを選択してるうちは、ご主人を亡くした奥さんの言葉を鵜吞みにしてしまって、そんなふうにおっしゃってくれない患者さんや家族の方に対して「虚しさ」や「寂しさ」を感じてしまうことになり、すぐに心が疲弊してしまうのだ。

先輩2人に35年ぶりに再会し、懐かしい自分にも再会した。そして、私もそれなりに、健全な「孤独」と「寂しさ」を乗り越えてきたと思った。