江藤の語り

江藤は前歯の裏まで出かかった言葉を思い切って声にしてみた。「あ、あの、新堂さん。」杏奈は江藤の方を見たが静かに沈黙を共有した。江藤は、次の言葉がなかなか出てこなかった。しかし、思い切って話してみようと決めた。

「あの、俺さ。離婚してから、家族で住んでいた小さな戸建ての家を売却してね、アパートに引っ越したんだけど、家が思っていたより高く売れてローンから解放されたんだよ。両親も年金や貯金があって、入院生活や普段の生活も経済的に自立してくれていてね、俺は両親に対して何もしてあげていないだよ。というか、何もしなくてもよかったんだよ。姉や妹にも助けられていたしね」と一気に話すと、江藤はこんな話をしていいのだろうかという気持ちになって、ちらっと新堂の方を見た。杏奈は微笑むでもなく真顔でもなく、薬師如来像のような顔でうなずいた。江藤はその杏奈の顔を見て自然の成り行きのように続きを語り始めた。

「俺は、幸せだったのだと思う。俺は病気になってから、くだらない人生とか、転落人生とかって自分でラベルを貼っていたけど、いろいろラッキーだった様に思う」と言うと江藤は思い出したよう顔をして話を続けた。「元女房も実家が農家だったので住む家にも困らず仕事もあって。そりゃあしばらくは近所から噂の的になっていたかもしれないが、娘も健康に育ってくれて・・・・。実は、慰謝料だとか要求されなかったんだ・・・・当時は、元女房に甲斐性のない男だから何も要求もしてこないのだなと思って悔しかったくらいだった。俺も意地になって娘の進学の時には退職金を渡したけど、あんな気持ちで支払うお金なんて全く死に金だ」「死に金・・・・」「ああ、でも今思えば、元女房の優しさというか、強さというか・・・・覚悟というか。俺なんかよりすごい人間だったんだと思う。いろいろわかっていたうえで受け取ってくれたんだと思う」と言って下を向いて涙ぐんだ。

「俺は、両親、元女房や娘、姉や妹に何もしていない。もらってばかりのラッキーな・・・・」といってまた下を向いてしまった。

杏奈は「江藤さんは、ご自分の人生がくだらない人生や転落人生というラベルからラッキーな人生というラベルに貼り替えたんですね」と言った。江藤はコクリとうなづいた。

杏奈は「ラッキーな人生の江藤さんは、これから何をする人になるのですか」と尋ねた。江藤は下を向いたまま、へへへへと笑って「まだ何も決めていないよ。とりあえず、実家の掃除かな」と言った。「リノベーションですか!」と杏奈が言うと江藤は「ただの掃除ですよ。軽トラを借りて、粗大ごみを捨てに行ってきます。」「すっきりしたお家で住むとどんな気分になるんでしょうね。」「そりゃ、ちょっとは晴れ晴れするでしょうね」と言って江藤は顔をあげた。杏奈は遠くを見る目をしてぼんやりとした表情でうなづいた。

江藤は「新堂さんと話をしていると早く掃除をしたくなってきたな」と言って笑った。「今日、帰ってからお掃除を始めるといいかも!」と杏奈も明るい声になった。「うん、そうする。すっきりした家に住んでみてから、これからのことを決めていこうと思う」といってソファーのひじ掛けに手を置いた。江藤は今にも立ち上がりそうな勢いだった。杏奈はその様子を見て、「お掃除が終わったころにまたお手紙を書いてくださいね。お待ちしています」と言った。江藤は勢いよく立ち上げって「掃除が終わったら、手紙を書くよ。お話ができてよかった。ありがとう」と言った。「私も、ラッキーな人生を歩んでいる江藤さんにお会いできて嬉しかったです」と言ってたちあがってお辞儀をした。

相変わらず病院のラウンジは静かだった。時々お掃除ロボットが床を静かに清掃しながら通り過ぎたり、高齢者が来院した場合は全自動シニアカートに乗って目的地まで誘導している音くらいが聴こえる。看護師と話をしている患者や家族らしき人も何人かいるがみんな穏やかに談笑している様子だった。

病院の外はぐうの音も出ないほどの残暑だった。しかし、江藤の心は雨上がりの虹の出た空のように晴れやかだった。早く家に帰って、掃除をしたいというエネルギーを感じた。

続く・・・

これはフィクションです。実在の人物や団体などとは実在しません。

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