知識と経験と天井

私の小さな事務所の本棚には、水栽培をしたモンステラの花瓶が2つある。一つは一番上段の棚、もう一つは上から三段目に置いている。一番上の段に置いたモンステラには本棚の天井がない。だから、ぐんぐん伸びている。でも三段目に置いたモンステラは、か弱い茎のまま、葉っぱも大きくならない。大きくなってもらっても、三段目に収まってくれないと困るので「このままでちょうどいい」と思っている。それにしても、天井があるのとないのとでは、こんなにも成長に違いがあるんだなと思いながら、毎朝、水を変えている。

私は、自分に対してすぐに天井をつくる。保身だ。天井の作らない人もいる・・・・と思っていた。そんな人は、ぐんぐん自由に伸びていくと思っていた。それは、少し違っていた。天井に気づける人だった。そしてその天井を意図的に取り外せるのだ。その時、痛みや苦しみも伴うかもしれないし、伴わないかもしれないし、やってみないとわからないという事実を超えていける人だと思う。

難病の子どもたちの病棟で働いていたころ、ある子どもの両親がろうあ者だった。両親は子どもに手話で話をしていた。子どもはすでに難病のため筋力がなく手話ができなくなっていたので、小さな口の動きで両親と話をしていた。のちに、その両親は子どもの死に立ち会った。両親の鼻をかむ音だけが耳に残っている。

あの両親は、ろうあ者として互いの人生を歩んできた。そして二人が出会い、結婚をした。出産をした。障害と言う「障害」を何度も超えながら「幸せ」と感じる日々を送ってきたことは容易に想像できた。二人は、とても静かな世界の中で、社会から孤立することなく暮らしていた。そして、子どもが幼稚園のころ「難病」であることが分かった。お母さんは私に、幼稚園のとき滑り台の上から手を振る子どもの写真を見せてくれた。一番好きな写真らしい。まだ、歩くことができたころの写真だ。無邪気な笑顔だ。「かわいい!!」と言うとお母さんは「でしょ~」というような表情をして喜んでいた。そして、ベッドにいる子どもの顔を指さして「ニキビができている」とジェスチャーで伝え、口をへの字に曲げたあとへへっと笑った。そのとき、私は、お母さんの笑顔を切なく感じた。ニキビができるほど成長したよ、もう手話で話せなくなったけどね、人工呼吸器をつけているけどね、どんなメッセージを同時に受け取っていたのだろう。思い出しても切ない。

そうだ。あの時、私は天井を作っていた。「この障害はね、」とあたかも何でも知っているかのように、成り行きを思考し、天井を作ったのだ。お母さんは「今」を生きているのに、私は「天井」を見上げて悲観していた看護師ではない、ただの人だった。メッセージは自分で作成したシナリオだった。今もなお、切ないのは天井を超えていないからだ。

あの両親も定年を迎えているだろう。子どもを看取った後も様々な天井を超え、誰とも比較されようのない唯一無二の人生を誇らしく生きていてくれていると信じている。信じたい。あ、また、自分に都合のいいことを考えている。この思考が3段目のモンステラだ。

リセットして、今日を生きよう。

「看護」とは何かについて考えていくことを意図として、「看護師日記」を書くことにしました。私の看護師、看護教育の経験に基づいて表現していますが、人物が特定されないように、また文脈を損なわないように修正しています。