母親卒業宣言

私は、息子を妊娠する前、稽留流産の経験がある。だから息子の妊娠は、嬉しかった。妊娠中、主人がつくってくれるカレーにはいつもレバーが入っていた。貧血、血圧、血糖値などもろもろ異常がなく、母子健康手帳はパーフェクトだった。産前は出産予定日を含む6週間前まで看護師として働いた。私が24歳の時だった。

ただ、お腹が大きすぎて、ご飯を食べることができなかった。分割で食事をした。おかげで、体重は非妊娠時の体重より7kg以上増える気配すらなかった。里帰りする前の検診で、エコーを見ながら主治医が「頭が大きすぎる」と言った。小学校のときのタナカくんを思い出した。タナカくんは頭が大きくて赤白帽子がのっかっていた。そんな赤ちゃんが生まれてくるのかと想像してニヤニヤしていた。しかし、主治医の顔は深刻だった。

巨大児?ほかになにか?

私は祖母に、スポーンと出産をしなさいと言い聞かされていた。祖母は三人の子どもをさりげなく自宅で産んだ。胎盤はミカンの木の下に埋めるという風習があったらしい。ただ男の子を産めなかったことを悔やんでいた。どれもこれも「そんな、時代じゃねえわ!」と言う話だ。

しかし、巨大児となるとちょっと不安になった。巨大児を経腟分娩した場合、分娩時、分娩後、私も赤ちゃんにもリスクが生じる。また緊急帝王切開となる頻度も正常体重新生児に比べて高くなる。

里帰りをした。実家でこんなに長くいるのは、高校生以来だ。予定日の朝、少し出血した。「おしるしだ!」。その日の夕方からお腹が張ってきた。ノートを取り出し、お腹のはってきた様子と時刻を記していった。定期的に7分間になるまで待つことにした。次の日の明け方、定期的に7分くらいになったが、陣痛と言うのはもっと痛いはず。私は微弱陣痛だ。しかも、経腟で産めるかどうかわからない巨大児だから、病院に行った方がいいと判断した。

定期的な微弱な陣痛を感じながら待合室で待って、そのまま入院することになった。主人は、会社を休んできてくれたが期待通り生まれそうにない。助産師さんは、NST(ノンストレステスト)を装着したり、子宮口が開いているかを確認に来たりしているが、「あまり進まないですね~」と言った。そして、とうとう医師から「巨大児なので、負荷をかけて産むのは避けましょう」という説明を受け帝王切開となった。

今はどうかわからないが、30年前は帝王切開の前に浣腸をした。私のように微弱ながら定期的に陣痛があり、一晩ほぼ徹夜の状態で浣腸はつらいと思ったがさほどでもなかった。つらかったのは、トイレに入ってトイレットペーパーがなかったことだ。看護師さんや助産師さんを呼ぶブザーもない。トイレの中から「看護師さーーん」と叫んでみたが誰も返事をしてくれなかった。仕方なく、そのままお尻を拭かずに出てきて、トイレットペーパーのありそうなところを探して一つ拝借し、またトイレに戻った。そして何食わぬ顔をして出てきた。どうでもいい話なのだが、私は、こんな局面に冷静でいることができると述べておきたかった。

そしていよいよ帝王切開だ。腰椎麻酔をした。仰向けになって、覆布をかけられたが無影灯の明るさを感じた。ドキドキした。皮膚から腹膜まで縦に切られている。お腹を引っ張られている感じがする。いよいよ子宮を切開する。もうすぐ、会える!

んぎゃ~と泣き声がした。生まれた!「大きな男の子です」と先生が言った。「大きな」は余計だ。

助産師さんが、臍帯を切った赤ちゃんを私の胸にのせてくれた。4,130gの貫禄ある新生児だった。髪型が七三分けになった小さな主人だった。主人にしては小さすぎるが、新生児にしては大きすぎる。しかも重い。とはいえ、感動した。嬉しかった。泣いた。看護師さんたちが、胎盤を計測しながら「胎盤まででかい!」と言って笑っている声が聞こえた。「そりゃあ、そうでしょうよ」と思いながら、赤ちゃんを抱っこしていた。幸せだった。本当に幸せだった。

私と息子は、その日を境に分離した。私は息子に対して、急に明るい世界に引きずりだしてごめんなさい、と思った。ほぼ24時間、微弱ながら陣痛があったので、お互いに心の準備ができていたのかなと思えるようになったのは7年ほどたってからだった。なぜか私は、「経膣分娩できなかった」と感じて過ごしたのだ。

4,130gの赤ちゃんと一緒に胎盤、羊水、出血、合わせて、7kgぐらいのものが身体から取り出され、ホルモンバランスを正常化するのに脳内がお祭り騒ぎになっているのを感じた。それでも、息子はかわいかった。新生児室に並んでいるひと際でかい赤ちゃん。コットが小さすぎた。いつも、掛布が床に落ちて、小さな前開きの肌着が全開になってオムツが丸見えになっていた。それが、またかわいかった。母乳もよく出た。上手に飲んだ。そしてよく寝た。

しかし、私は、子どもを産み、育てている時間の中で、だんだんと情緒が不安定になっていった。マタニティブルーズかもしれないと思った。気分の落ち込み、イライラ、急に不安になる、過食、倦怠感、自己嫌悪などだ。実家暮らしを予定より早く切り上げ、大阪に戻り3人の暮らしを始めた。

私はマタニティブルーズではないとして、「いいお母さん」になろうとした。トイレットペーパーのないトイレから冷静に出てきたように、私は冷静にイライラを「ないものにできる」と思っていた。が、あるもの(イライラ、不安など)は、ないものにできなかった。しかも、ないものにできないということを受け入れられなかった。敗北感さえ抱いた。それが自己嫌悪になり、自己肯定感を下げていった。息子のせいでも主人のせいでもない。私一人が「いいお母さん」と言う妄想を追いかけて悪あがきをしていただけだった。

私が息子を産んで学んだこと。「あるものはある」を認めることだった。

私は「母親として、どうかな~」という部類の母親だった。私は仕事ばかりする母親だった。本来やる事柄から逃げていたのかもしれないと思った。それでもいろんな人のおかげで息子は立派に育った。

息子の結婚とともに、母親卒業宣言をした。つまり私は後悔したり、反省したりするのはやめることにした。リスタートだ。清々しい。