AIに任せたのに、なぜこんなに疲れるのか
AIに資料作成を頼むようになって、不思議な感覚を持つようになりました。
何度かやりとりをして資料ができあがったあと、まるで自分で一から書き上げたあとのような疲労感がやってくるのです。手はほとんど動かしていない。キーボードを打ち込んだわけでもない。それなのに、終えたときの消耗は、自分で作ったときと変わらない。
最初は「気のせいだろう」と思っていました。でも何度も同じことが起きるうちに、これは気のせいではなく、脳の仕組みそのものなのではないかと考えるようになりました。
脳は「この先の負荷」を先回りして見積もっている
人間の脳は、目の前の作業だけを処理しているわけではありません。「この成果物を、私が責任を持って仕上げ、確認し、世に出すまでに、どれだけの労力がかかるか」を、常に先回りして見積もっています。
AIが短縮してくれたのは、手を動かす時間です。けれども、最後まで引き受ける覚悟の総量は、少しも減っていません。
むしろAIが速いぶん、本来なら作業時間の中で少しずつ慣らされていくはずの心の準備が省かれてしまう。いきなり「はい、できました。あとはご判断ください」と差し出される。脳は助走なしに着地点を見せられて、その落差に疲れるのです。
やりとりの間、脳は最も疲れる作業をしている
そしてもう一つ。AIとのやりとりの過程で、脳はずっと働いています。
指示を出し、出てきたものを読み、ここは違う・ここはいい・こう直してほしい、と判断し続ける。手は止まっていても、評価と意思決定という、最も疲れる作業を何度も繰り返しています。
自分で一から書くときは、流れに乗れる瞬間があります。けれどレビューは、ずっと醒めた目で見続ける作業です。
脳にとっては「自分が通り抜けた」記録になる
何度もやりとりをして中身を理解し、責任を持って受け取った時点で、その資料は脳の中で「自分が通り抜けたもの」として記録されます。
実際にキーボードを打ったかどうかは、疲労の実感にはあまり関係ないのかも。
頭の中で構想し、見て、直すという工程を凝縮しているぶん、密度だけが濃く残る。
特に、最終的に世に出すのは自分だという前提が常にあると、やりとりの間じゅう「これは私の名前で出るものだ」という引き受けが働き続けます。それが疲労を「自分が作った」感覚へと変えていくのだと思います。
その疲れは、手抜きの証拠ではない
私たちはつい「AIを使ったのだから、もっと速く、もっとたくさんできるはずだ」と考えてしまいます。
引き受けた量に見合うだけの休息や、自分への評価がちゃんと追いついているか——立ち止まって確かめる価値はあると思います。
便利な道具を手にしたからこそ、疲れの意味を読みかえる必要があるのかもしれません。手を動かさなくても、脳は確かに働いている。その事実を認めることが、AIと長くつきあっていくための、最初の一歩です。
