「ひきこもり」の物語というよりも・・・・・
最近、『ひきこもり家族』を読んで、しばらく気持ちを切り替えられなかった。
重い。苦しい。暗い。なんとなくイライラする。
今の社会のどこかに確かにある痛みを突きつけられるような作品だった。
この物語に出てくるのは、「ひきこもり」という言葉ではひとくくりにできない人たちだ。
不登校となり、12歳でひきこもりになった19歳の僚太。
母親と二人暮らしの大知は、ブラック企業で働いて心を病み、20年前からひきこもりとなった44歳。そして、50代の竹之内、40代の亜弥子、20代の玲。
年齢や学歴、経験値も全く違う5人が、それぞれの人生のなかで社会の「普通」からこぼれ落ち、家族にも抱えきれなくなった存在として表現されている。
彼らの家族が最後の望みを託したのが、「リヴァイブ自立支援センター」だった。しかし、そこから始まるのは「支援」ではなく暴力的な現実だった。強引に自宅から連れ出され、元警察官が営む熊本県の研修施設へ送られ、囚人のような生活を強いられる。
更生でも再出発でもなく、まず従わせること、管理することが優先されている。そして、「普通」ではない者は、そのような環境でないと生きてゆけないと言い放つのだ。
監獄のような扱いに抗った5人は、ある日、施設長を殺してしまう。
ここから作品は、単なる「ひきこもり支援」の話ではなく、逃げ場を失った人間たちのサバイバルと何か同じ目的を手に入れたかのようなファミリーとして暮らすのだ。
私は、何度も「これは誰か特別な人の話ではない」と感じた。
ひきこもりというと、社会の側はすぐに「本人の問題」として見てしまいがちだ。
外に出られない人、働けない人、社会参加できない人。
けれどこの作品は、その見方がどれほど表面的かを突きつけてくる。
僚太は12歳で社会から切れてしまった。
44歳の大知は、社会に適応しようと一度は働いた結果、心を壊してひきこもった。
ひきこもりは、単純な甘えでも、努力不足でもない。
一度社会との接点を失ったあと、再び戻ることの難しさ。周囲の理解の乏しさ。家族の焦りと疲弊。
そうしたものが積み重なった結果としての「ひきこもり人生」がある。
特に印象に残ったのは、家族の追い詰められ方である。家族は本人を助けたい。
このままではいけないと思っている。けれど、どう関わればいいのかわからない。
優しくしても変わらない。厳しくしても壊れてしまう。
その末に、外部の「支援」にすがる。
しかし、その支援が本人の尊厳を守るものではなく、力づくで社会に戻そうとするものであったとき、そこには救いよりも新たな暴力が生まれてしまう。
家族は悪意があってセンターに頼るわけではない。むしろ苦しみ抜いた末の選択である。
でも、その「なんとかしてほしい」という切実さが、本人にとってはさらなる追い込みになる。
支援とは何なのか。
自立とは誰のためのものなのか。
社会から排除され、家族からも「なんとかしてほしい存在」とされ、支援施設では人としてではなく矯正対象のように扱われる。
そうした積み重ねの先に起きた殺人事件。
だからこの作品は、ミステリでありながら、単に「殺人の真相」や「逃走劇」を楽しむ作品ではなかった。事件の背後にあるそれぞれの人生の痛みが重く残る。
誰が悪いと簡単に言えない。
本人だけでもない。家族だけでもない。支援者だけでもない。
社会全体のゆがみが少しずつ絡み合って、ついに取り返しのつかないところまで行ってしまったような読後感がある。
とくに、彼らが「社会復帰を目指すべき人」として一括りにされることへの違和感は強かった。回復や自立は、本来もっと時間が必要で、もっと個別で、もっと尊厳が守られるべきものではないのかと思う。
ひきこもりの問題は「家から出るか出ないか」では測れないということだった。
本当の問題は、その人がなぜそこまで追い詰められたのか、なぜ社会との関係を失ったのか、そして周囲がその苦しみをどう扱ってきたのか、ということなのだと思う。
ひきこもり本人の苦しみだけでなく、家族の限界、支援の危うさ、社会の乱暴さまで描いた作品として、とても重く、考えさせられた。
これは「ひきこもりの人の話」ではなく、居場所を失った人たちを、社会がどう向き合うのかを問う物語だった。私たちのすぐ近くにあるのだと思う。

